パウル・クレー展 創造をめぐる星座 2 | geezenstacの森

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パウル・クレー展

創造をめぐる星座 2

 

 ここしばらくメジャーな企画が無かった愛知県美術館でしたが、ぜんかいの「相国寺てん」からまた客足が戻ってきていて、この「パウル・クレー展」も多くの来場者でごった返しています。

 

 

 

4.シュルレアリズム

 

  アンドレ・ブルトンが 1924 年の『シュルレアリスム宣言』において、クレーをシュルレアリスムの先駆者 のひとりとして位置づけたように、第一次世界大戦後のフランスにおいて、シュルレアリスムの詩人や芸術 家たちは、彼の作品に着目していきました。クレーがシュルレアリストを自称し、その活動に積極的に加わ ることはありませんでしたが、《小道具の静物》に描かれた、人知れず生命を帯び始める舞台倉庫の道具の姿 や、《周辺に》に示される植物の細部が見せる驚異的な姿への関心は、シュルレアリストたちとクレーとの接近を物語っています。

 

パウル・クレー 攻撃の物質、精神、象徴 1922,44

 

パウル・クレー 小道具の静物 1924

 

パウル・クレー 闘っているポップとロック 1930

 

パウル・クレー 蜜の筆跡 製作年不詳

 

カール・プロスフェルト オシダ、トリカブトの新芽、矢車菊の花 制作年不詳

 

パウル・クレー 熱帯の花 1920

 

5.バウハウス

 

 ドイツ・ワイマールで1919年に建築家Walter Gropiusが起こしたこの運動は、彼が就任した国立バウハウス デザイン・建築・応用美術学校を通して、美術と産業の関係性を理解するダイナミックな新しい方法を象徴しました。ウハウスの設立によって、もはやデザインは木工よりも高く評価されることなく、建築が絵画より優れているとみなされることもなく、あらゆる分野が対等に優れていると考えられようとしていました。Gropiusはこの収束の考え方を通して、身の回りの物をデザインの対象に昇華していったのです。このバウハウスに、クレーはバウハウスのマイスターとして招聘されました。

 

リオネル・ファイニンガー 夕暮れの海 1927

 

ヨハネス・イッテン チロルの風景、老女、少女、、コンポジション1,2 1919

 

パウル・クレー 内面から光を発する聖女、1921 バウハウス展のための絵葉書「崇高な面」1923

 

ファイニンガー ゲルメローダ 1920  パウル・クレー 恋煩いの男 1923

 

もホイ・ナジ コンポジション 1923   カンデンスキー 楽しい飛翔 1923

 

カンデンスキー 緑に向かって 1928

 

パウル・クレー 女の館 1921

 

パウル・クレー ある音楽家のための楽譜 1924

 

パウル・クレー 北方のフローラのハーモニー 1927

 

パウル・クレー 小さな家 1928

 

パウル・クレー 蛾の踊り 1923

 

 

 パウル・クレー 侵略者 1930

 

パウル・クレー 都市の境界 1926

 

パウル・クレー 大聖堂 1932

 

6.新たな始まり

 

 ヒトラー政権樹立によりクレーは退廃的な「ユダヤ人」とみなされ、140点もの自作が「退廃芸術」として美術館から没収されました。ここではクレー自身とその時代の危機的状況を紹介していました。

 

パウル・クレー 殉教者の頭部 1933
 
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パウル・クレー 子供とおば 1937
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 パウル・クレー 山への衝動 1939

 

パウル・クレー 回心した女の堕落 1939

 

パウル・クレー 無題(歩く女) 1939

 

パウル・クレー 黄色の中の思考 1937

 

パウル・クレー 無題(最後の静物画) 1940

 

パウル・クレー 花のテラス 19-37

 

パウル・クレー イチジク 1934

 

 

世界で開催されたらパウル・クレー展

 

日本の展覧会がいかに分厚い画集を発行して儲けようとしているのが分かります。

 

クレーの仕事場 正面に遺作の「静物画」があります。