このところ色々あって、、、といっても、このところは、世界中の皆さん色々ありすぎるほどあったのではないかなと思ったりしています。

人と比べるのは不幸への道を爆走することになりますが、それでもやっぱり昨年末からの数ヶ月、全ての人、動物たち、自然環境、もう何もかもが、色々あったんじゃないかと思います。

私に起きたことは、とてもシンプルで、モラハラ、パワハラ、そしてそれによるメンタルブレイクといったところです。

ハラスメントによって仕事ができなくなったことが2回も起きたのは、本当にショックでした。

でも少しずつ乗り越えられてきています。

強迫もひどくなってしまいましたが、ハラスメントから全力で逃げたことで、少しずつ回復してきています。

世界中がコロナで大変な時に、私もしっかりコロナの影響を受け、今年のスケジュールは全て白紙になってしまいました。

収入にも影響はありましたし、間接的ですが仕事をいくつか失うことになりました。

でも、言ってみればそれだけで済みました。

私も、家族や友人も、コロナによる健康被害は受けていません。

リモートではありますか、交流が増えた人、再会できた人もいます。

私はもうずっと前からリモートワークをしてきたので、私自身の生活が劇的に変わったわけではありませんが、世界中の人がリモートであることが普通になったことで、私の生活の彩りは変わってきました。

良いことも悪いこともたくさんありますが、そんな中で一つとても感じていることがあります。

私は昨年から、強迫性障害を克服する為に、最も強迫観念が起きやすい場所にあえて引っ越して生活しています。

強迫の内容についてはまた別の機会に書きますが、生活のすべて、誇張ではなく本当にすべてを壊すほどの、とても苦しいものでした。

コロナの影響がなければ、月に何回かは他の地域に行って仕事をしたり、生活をしたりする予定でもありました。

新しい場所で一期一会のコミュニケーションをすることも、私にとっては暴露反応妨害法による治療になる為、必要なことでした。

でも、昨年末からのコロナの影響で、それはできなくなりました。

街はロックダウンされませんでしたが、私はアパートの一室に閉じ込められてしまいました。

閉じ込めたのは、果たして誰かは、今はまだはっきりわかっていませんが、とても辛いものでした。

当然の様にメンタルは崩れ、連鎖的に身体も辛くなり、プライベートはボロボロ、仕事ではハラスメント、、、

何から何まで怒涛のやってられないことフィーバー、、、という感じでした。

今やっとこうして言葉に紡ぐことができ始めているのが、なんだか不思議なほどです。

この間ずっと感じていたのが、息ができない、ということでした。

昨年、いやもっと前からその感覚はあったのですが、息ができない、息をしたい、ずっとそう思ってきました。

今なお、息をしたいという感覚が強くあります。

息をしたいってなんなんでしょうか?

いまいち言語化できませんが、先日、見知らぬ土地の、海と山に挟まれた広い農村でぼーっとした時、ここで住めるかな、と想像したときには息ができました。

未来や過去に何かを求めてもどうしようもありませんが、いま息ができないので、ついそうしてしまいます。

ACT, Acceptance and Commitment Therapyという認知行動療法の週の一つの勉強をしていて、呼吸を数える、ということを学びました。

数えようとして初めて、自分が息ができていないことに気付くのです。

呼吸は人間にとって生命維持に不可欠なもののはずです。

当たり前に不可欠なので、もはやそんなこと忘れられるほどです。

でも息はしないと、生きてはいけません。

私は、息をしたい。

つまり、生きたいってことでしょうか?

再びACTの話になりますが、自分の人生を生きるに値するものにする為に、自分の人生に価値を与える手法がありました。

分かりやすくいうと、生きる意味・目的といったところでしょうか。

恒常的で不変なものでなくても、今このときそれを持っていることが大切な様です。

私にそれがあるかどうかというと、やっぱり今は見つかりませんでした。

なんで生きているの?何を目的に生きているの?その人生を生きるに値する価値って何?

そういえば、私は高校生くらいの時、このことをはっきりと悩んで考えたことがあります。

同級生に聞くと、鬱なの?とか知らんとか言われましたが、中には、漫画を書くこととか、サッカーをすること、彼氏、とか答えてくれる人もいました。

しかし大人に聞くと、すごく怒られることがありました。馬鹿にするなとか酷いことを言うやつだとか。

その時の私の失望は筆舌尽くし難いものでした。

ああ、大人って本当につまらないんだなぁと、まだまだ世界が狭かったわたしはそう思ってしまいました。

でも、そんなわたしも、そんな大人まっしぐらな状況でした。

自分の生きる価値を持てていなかったのです。

わたしは何者か、アイデンティティが、把握できていませんでした。

それが、今なお続いているのかもしれません。

わたしの好きな言葉に、我々は何処より来たり、我々は何者で、我々は何処へ行くや、というものがあります。

人が憧れるものは、自分にないもの、とはいいますが、本当にそうですね。

好きな言葉さえ、アイデンティティを追い求めるものの様な感じがします。

わたしが、息をする為には、わたしが何者か、確立しなくてはいけないのかもしれません。

モラトリアム全開な文章にも見えますが、恥ずかしげもなく、そんなことを書いておきたいと思います。

恥とは何か、そんなことわたしはもうわかっているはずですから。

ああ、息がしたい。

わたしはこの世界で何年も何年も生きてきて、まだ息の仕方がわからない。

息が出来る様に、頑張ろう。