過去、受けたいじめというものが今の僕を作る。
体の傷など、軽く感じた。
心の傷が深く、深く残ったまま。
そのいじめの裏には、裏切りも存在している。
なぜ自分がいじめられたのか。
加害者本人しかわからないが、
僕もわかってしまった。
気づいたときには遅かった。
いじめは楽しいのだ。
ドーパミン系に関係するものなので
依存につながる、という説もあるくらいだ。
いじめの線引きというのはかなりあいまいである。
加害者と被害者。いじりと何が違う?
SMという物があるが、それはこのようなものではないのか?
簡単に言うと服従関係にある状態で、
それはまるで世の中の社会のようだ。
誰かが誰かの教育、指導をする。
それを楽しむ人がいる。
普通なのであろうか。
僕の解釈としては、
いじめとは身体的、精神的苦痛を与えること
だと考えている。
皆、上に立てば下にいたころなど忘れて
下の人間たちをこき使うではないか。
加害者が被害者の気持ちを感じることは
そこでできるだろうか。
できればそんなふうに扱わないだろう。
気持ちなど加害者に分かるか。
わかればいじめなどすでにないはずだ。
いじめはなくならない。
大人がする時点で子供がしないわけがない。
いじめに関わる人を減らすには、
一人一人の想像力が必要。
どれだけ相手のことを思って動くことが大事なのか、
自分の行動で周りはどんな反応をするのかという予測がどれだけ大事か、
考えろ。考えろ。
言動というものがどれだけ危険で、安全であろうか。
優しさとは、思い遣りである。
薄っぺらく優しいなど自分を思ったことはない。
優しいのはただの結果だ。
持ち合わせることは当たり前だ。
ただ、失敗することは必ずある。
その失敗に対してどう立ち向かうか。
絶対傷つけたくない。
傷つけたくない。