新横浜から小机に向かう車窓で、

初めて日産スタジアムを目にした。

「ああ、大きいなあ」と。まるで自分のライブへの期待値を

再確認するかのように。

 

 迎えたライブは2011〜2016のDay1、2017〜2021のDay2と

銘打って発表されていたものだが、このタイトルに記載されていた

通りに沿うものかというとそうではなかった。

「10年目のお祭り」と評するのがふさわしいか、新しいファン、

いわゆる世間に対して広く間口の開いたライブだったと思う。

それゆえアンダーなど乃木坂46を辿る上で取り上げて欲しい

文脈の一部は悉く排除されていたのだが、そこは後述する。

 

下記からは1日ずつライブのレポ、感想を上げていきたい。

【卒業生が出るということ】【コロナ禍を経たライブの在り方】も

含んだ個人の所感と備忘録的な位置付けなので、

「そんな訳ないだろ!」的なところはご容赦いただきたい。

 

1.Day1 2011~206

 

Day1は2016年までの楽曲が中心になる(と思っていた)ので、

"今乃木坂46にいない人達"が作り上げた楽曲を演じる事になる。

これまでの乃木坂46ライブで過去楽曲群においては、

"継承"に重きが置かれていたと思う。

しかし、今回のライブはその人が"いない"ことを見せる事で、

"いた"ことを見せつける構成になっていたと思う。

 

例えば『バレッタ』などは2期生の鈴木・山崎をWセンターに置く事で、

堀未央奈がいないこと、また2期生人数の減少について

分かりやすく提示していたし、『今、話したい誰かがいる』も

(山下は何度かその立ち位置を経験したものの)センターになった

山下も久保もどちらも白石麻衣、西野七瀬の系譜として

(ファンダムにおいて)扱われていなかったので、

今の表現としてすんなり受け止めることができた。

 

他の曲も過度に"後継者"と呼ばれるような人をセンターにしたり、

演出をしなかったことで、お祭り色を維持していた。

だからこそ、生駒里奈が登場した『制服のマネキン』も、

伊藤万理華が登場した『ここにいる理由』も、

"いなくなった人たち"による過去曲の再現だし、

その強度をありありと表しながらも、過度な現在への訴求も

免れることができていた。

※ただここで例外になるのが、久保史緒里と遠藤さくらであるが、

ここは2日目のレポで記述する。

 

1日目の前半は2016年までの表題曲とカップリングの代表曲を

中心に披露され、若干拍子抜けではあったのだが、

結果として後半に披露される2017年以降の楽曲群の

強度を実際の比較として実感することができた。

 

『I see...』『スカイダイビング』『君に叱られた』の流れは

秀逸であったし、そこでセンターを務めた山下美月と賀喜遥香は

誰よりもセンターとしての矜持/責任/覚悟/業のすべてを

背負ったうえで、日産スタジアムのすべてを背負おうと

していた。

(二人の上記曲における煽りがまさにそれであった)

特に、(是非はここではともかくとして)、『I see...』は

コロナ禍以降にエンターテインメントにおいて見えなくなって

しまった、ライブ会場に足を運ぶすべての人が取り戻したい風景が

あったのではないかと思った。

 

また、『Sing Out!』はコロナ禍以降の乃木坂46において

漸く完成系となった曲かと思う。

 

「オーケストラに合う曲があるっていうのも乃木坂の

強みですよね」

2022/5/20 【久保史緒里の乃木坂上り坂】より

久保史緒里の言葉通り乃木坂46xオーケストラには親和性が

あるのだが、『Sing Out!』は発売当時は今ほど取り上げられる

曲ではなかったと思う。

というのも当時はまだコロナ以前なので、"コールしない曲"に対する

熱量がそれほどファンの中で熱量が多くなかったのではと

思っている。

(23rd発売記念コンサート@横浜アリーナで齋藤飛鳥が

「やらないのがかっこいいと思っているの、大間違いですからね」

といっていたのも、そこに通じるのかななんて。

実際21st、22nd、24thはコールがガンガンできる曲だったし…)

 

だがコロナ禍以降声が出せない状況の中で、ハンドクラップという

ノンバーバルな応援方法が一般化し広まったことで、

結果として(私が思う)"この曲に対する適切なリアクション"が広まり、

さらにオーケストラとの親和性も相まって、壮大で荘厳な楽曲に

なったと思っている。

実際、日産スタジアムの会場で同曲を聞いたとき、

「もう余計なコールは一切いらないんじゃない?」という確信を

持てたほどだった。

 

2.Day2 2017~2021

 

2日目は1日目と反対の構成で、2017年から2021年の表題曲、

カップリング代表曲を主に前半で披露し、後半に16年までの楽曲群を

畳みかけるもの。

(多分、ライブ1日どちらかだけ見てもある程度10年を追えるような

構成にしたのだろう)

 

2日目は久保史緒里がセンターで『日常』を、

遠藤さくらがセンターで『制服のマネキン』を披露した。

1日目の部分でこの二人は"例外"と述べていたが、

この二人がセンターで演じた上記2曲は、

明らかに過去とのつながりを想起させるものだった。

『日常』はかつて北野日奈子がセンターで披露し、

彼女の卒業後に久保史緒里がセンターを

継いで披露した形になる。久保史緒里は1日目でも

生田絵梨花センター楽曲『何度目の青空か』を

センターとして披露していたが、

生田も北野も久保にとって関りが深い人物なだけに、

どうしても"継承"のストーリーを排除することができなかった。

彼女がある程度進んで行っていることではあるだろうが、

かつてのセンター像、乃木坂46観を、ファンとしてみているが故に

魂を削られすぎないか、心を乃木坂46に囚われすぎないか、

心配になる。

山下と賀喜が日産スタジアムを背負って…という話をしたが、

「背負う」という意味では久保も同じで。

山下や賀喜が"今"と"未来"の邁進のために乃木坂46を

背負うと同時に、久保はこれまで乃木坂46が10年で

積み上げてきたものを1つも落とすまいと、

基盤を崩すまいと、ありし日々の乃木坂46をすべて背負って

前に進もうと奮闘している。

(本当さ、周りに皆いるんだからさ。)

 

遠藤さくらの『制服のマネキン』は、1日目にオリジナルセンターの

生駒里奈が披露した後なので、このタイミングで同曲を

披露することに「なんて残酷な仕打ちを」と思った。

楽曲の終わりに見た彼女の指の震えで、

どれだけの重圧と恐れを持ってこの曲に挑んだのかが

垣間見えたが、やっぱり遠藤さくらは再解釈の天才だった。

"今"の乃木坂46が見せられる最高強度の『制服のマネキン』を

彼女は見せてくれた。

1日目の『命は美しい』しかり、遠藤さくらにはどうしても

こういった役割が与えられる。

だが、彼女はいつみても"それがもともと彼女のために

作られた楽曲かのように"素晴らしい演舞を見せてくれる。

本当に頼もしい。

 

次に、1日目でも披露された5期生楽曲『絶望の一秒前』も

話題から外せない。どちらも"歴史"から"今"へ移行する

ベストなタイミングで披露された。

これまでの乃木坂をどこまでもまっすぐに見つめる井上和の視線、

11人そろえば7万人も相手にできるんだと改めて

実感することができた。

中西アルノが第二回お見立て会で言っていた(らしい)、

「完全体の5期生」というのは、まさにこういうことかと。

 

2日目には、卒業生として本編に西野七瀬、白石麻衣、

生田絵梨花が登場し、それぞれ

『帰り道は遠回りしたくなる』

『しあわせの保護色』『シンクロニシティ』

『最後のTight Hug』を披露した。

【復活】という意味合いの演出だったのだろうが、個人的には

「これが最後」という感触のほうが大きかった。

特に白石麻衣は有観客での卒業コンサートが叶っていなかった

ため、ここで披露することにより、彼女たちがセンターを務めた

これらの楽曲は

「ここでおしまい。これからは次の世代の人たちの曲だからね」と

言われた気がした。

勿論、この卒業生たちを推しとして応援していたファンにとって

そんな簡単に割り切れるものではないだろうが。

 

さらにアンコールには高山一実、松村沙友理が登場した。

その際の演出には2018年の6th year birthday liveの演出が

用いられたが、この10th year birthday liveにはそういった

過去演出のオマージュが多かった。

(ペンライト文字・スタンド上段へ向けたステージ・

航空写真で2会場を収めること・水の演出など)

このライブにおいては、声を出すようにある程度設計された

ライブだったのだと思う。

コールは規約にも書かれておりメンバーが注意までしているので

言わずもがなダメなのだが、声が思わず漏れて

(それが普段より大きくなって)しまうことについて批判はできない。

自分が直接目にすることができず卒業した人たちを

改めて目の当たりにすることができたら、

その本能的な部分に抗えない気もする。

 

ここまで雑に思うところをとどめてきたのだが、

やはりアンダーの文脈が2日のライブの中で大部分が

排除されているところを見ると、やるせない気持ちがある。

間口の広いライブにした故にも思えるが、表題も

長尺VTR+1曲みたいな形にせず、きちんとした形で

楽曲を披露すれば、おのずと10年を辿ることもできたのになと。

 

また、46時間TV以降"乃木坂らしさ"について

数々の論争が巻き起こったが、この2日間を目にした人は

その答えがぼんやりと分かったのではないだろうか。

それは、「乃木坂らしさなんてこちら側からはわからない」

ということ。

 

 

楽屋で、舞台袖で、舞台上で、

沢山の先輩に優しく声をかけていただいたとき

 

同期みんなで

手を繋いだり、抱き締めたりして、支えあったとき

 

乃木坂46メンバーの涙に、目を潤ませるスタッフさん方を

見たとき

 

OGの方が「大丈夫だよ」と声をかけて肩を摩って

くれたとき

 

これが"乃木坂46"かと

 

中西アルノ ブログ『しあわせ』より

これなのだ。ファンダムがいくら議論して押し付けようとしても、

乃木坂46の中で起きていることが乃木坂らしさであり、

それがその時々の最適解なんだろうと思う。

5期生11人がそろった『絶望の一秒前』を見たとき、

『Actually...』で中西アルノが登壇した際に拍手が起きたとき、

アンコールで1期生とOGが他愛ない絡みをして、うれし涙を流した時、

どれもこれも乃木坂46だし、生駒里奈の言葉を借りれば

「ここにいる子たちみんなすごい!」なのだ。

 

結論としてセットリストや演出面に物足りなさが残るライブではあったが、

10年のお祭りだとすると、これから先の乃木坂46をメンバー、

ファン全員が考え始めるきっかけとしてよかったのではないかと思う。