恐らく韓国では抹殺された歴史 | 大和民族連合

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韓国人が「反日」という麻薬に逃避することは嘆かわしい(NEWS ポストセブン)http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170306-00000010-pseven-kr

本来、恨むなら中国人だろう。

 

「モンゴル帝国」と「元」は厳密には違う。モンゴル族のテムジン(チンギスカン)が「モンゴル帝国」の王で、1260年にテムジン(チンギスカン)の孫がモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したフビライが「元」の王で、1271年にモンゴル帝国の国号を「大元」と改めた。

 

1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝で「遼」「金」「元」「清」などの征服王朝(外来の少数民族が支配階級として多民族を支配する王朝)と言い「隋」や「唐」などは異民族が建てた王朝で、中国の統一王朝で漢民族が建てたのは「漢」「宋」「明」ぐらいです。

 

当時、大陸は地続きなので領土は曖昧だったが「百済(くだら)」(346年頃 - 660年)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家、「新羅(しらぎ / しんら)」(紀元356年- 935年)古代の朝鮮半島南東部にあった国家で、半島北部の「高句麗(こうくり)」(紀元前37年 - 668年)が朝鮮半島を統一した。

 

それらを朝鮮半島における「三国時代」という。

 

しかし、8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、地方の有力な豪族たちが「新羅」を分裂させ、892年に「百済(くだら)」を建国。半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国した。これ以降を「後三国時代」と呼ぶ。

 

そして「新羅」を支援した「唐」によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

「高麗(こうらい)」(918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の三国を統一し「李氏朝鮮」が建てられた1392年まで続いた国家である。

 

「中国」は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会を言い、「中華」とも呼んだ。「中華」とは世界の中心という意味でも用いられるが、「日本」を極東と呼んでいる「欧州」も世界の中心である訳だから問題ない。

 

「清」は、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで「中国(中華)」と「モンゴル」を支配した最後の統一王朝(征服王朝)である。

 

「朝鮮」は、古代「新羅(しらぎ / しんら)」(紀元356年- 935年)から、「清」(征服王朝)滅亡に至るまで、中国の圧倒的に大きな支配を受け続けて来た国家である。

http://ameblo.jp/geek818ab/entry-12254367946.html

 

中華思想とは、中国王朝が宇宙の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くに持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称し、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い蛮族であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す。 

 

ただし「漢民族」の意味が古代と現代では異なる点には留意である。 古代の元々の漢民族は「黄河文明」に住む、極めて限られた民族だった。

 

日清戦争は、1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた、主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる「日本」と「大清国」の戦争である。

1894年(明治27年、光緒20年)朝鮮国内の「甲午農民戦争」をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が、8月1日(7月1日)宣戦布告にいたった。

 

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣・陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。

 

日本 大日本帝国(戦力)240,616人
大元帥 明治天皇
元帥陸軍大将 山縣有朋
元帥陸軍大将 大山巌
元帥海軍大将 伊東祐亨

 

中国 大清国(戦力)630,000人
第11代皇帝 光緒帝
太子太傅文華殿大学士商務大臣北洋大臣直隷総督部堂一等肅毅伯 李鴻章
欽差大臣 劉坤一
北洋通商大臣兼直隷総督 丁汝昌

 

日本 大日本帝国
戦死 1,132人
戦傷死 285人
病死 11,894人
戦傷病 3,758人

 

中国 大清国
死傷 35,000人

 

韓国 朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」である。

 

近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを占領した。また戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。

 

翌年4月17日(翌年3月23日)、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は朝鮮の独立を清に認めさせた。

 

また、清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。

しかし、23日(29日)、ロシア・フランス・ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。

 

なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日(10月2日)付けで大本営に全島平定が報告された(台湾鎮定)。台湾が軍政から再び民政に移行した翌年の1896年(明治29年)4月1日(光緒22年2月19日)ようやく大本営が解散された。

 

帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。

 

近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。

 

また戦後、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる。

 

さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。

 

対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。

 

その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。

 

1897年(明治30年、光緒23年)朝鮮半島から日本が政治的に後退し、戦勝国の日本も清と同じく挫折、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、「大韓帝国」が成立することになる。

 

韓国は『1000年間の長きに渡る清(中国)の支配からの悲願の独立が叶ったのは、大日本帝国(日本)が日清戦争に勝利した』からである。