わたしの結婚が決まった。相手はクレルモン子爵。

子爵は結婚したらオーストリアの母方の実家へわたしを連れて行き新婚生活はそこでおくるのだという。

どんどん物騒になっていくフランスからわたしを遠ざける意図も両親にはあったのかもしれない。

 

 

 

ある晩、わたしの侍女のイレーヌが変な絵を持ってきた。

 

「さあ、お嬢様、これをご覧ください。」

 

それは男女が裸で絡み合っている絵。わたしは思わず噴いてしまった。

 

「なによ?イレーヌ。こんなもの。

 誰の絵?ずいぶん、下手くそね。デッサンが狂ってるわ。」

 

 

イレーヌは可笑しそうに笑って言った。

 

「だって、これ、芸術鑑賞のためのものではございませんもの。

 これは良家の令嬢がお嫁入り前にご覧になっていざ旦那さまとお床入りするときに    驚かないためのお勉強の絵なんですの。

 オスカリーヌさまもクレルモン子爵さまとめでたくご婚約が決まったのですから、 これでお勉強をと乳母がわたしに寄こしたのですわ。」

 

「あっはっは!!乳母も自分で持ってくれば良いのにね!

 わたしだって赤ちゃんがどう生まれるかなんて自然科学の本でとっくに知ってるわ。

 わたしが赤ちゃんはキャベツから生まれるとでも思ってるって心配してるのかしらね。」

 

「乳母さんたら、こんなお役目のときばかりわたしに。」

イレーヌが大袈裟に苦情を言うのでまた大笑いしてしまう。

 

わたしは稚拙な筆致で書かれた卑猥な男女の絵をぱらぱらとめくった。

 

おお、おお、すごいわね、こんな格好まで。関節が一体どうなってるのかしら?人体構造をまったく無視したそんなポーズ、お人形だって無理だわ。

と、最後の一枚の絵にぴたりと目が留まった。

 

「イレーヌ、この絵は?」

 

「ああ、それはドレスを着たままなさるときの恰好ですよ。

 女性のドレスは脱ぐのも着るのも大変ですからね。

 手っ取り早くなさるときのことまでご丁寧に説明してるんですね。ふふ。」

 

 

その絵の男女は服を着ていた。女性はドレスを着たままテーブルに手をついており後ろから男性が抱きしめている絵だった。見た目はただ互いに同じ方向を向いて抱き合っているかのように見える。

 

 

わたしはその絵をじっと見つめた。

 

 

イレーヌはわたしが黙りこくってしまったので気分が悪くなったのかと心配になったようだ。

 

「大丈夫ですか?お嬢様、すみません、こんなものをご覧にいれて。

 もう片付けますわね。」

 

「ううん。そうじゃないの。大丈夫よ。

 ただ、ふと、思ったことがあったから。乳母に言っておいて。

 たいへん勉強になりました、結婚するのが楽しみだわ、って。」

 

「まぁ、お嬢様ったら。」

 

イレーヌは絵をまとめて箱の中に戻し部屋から下がって行った。

 

 

 

ひとりになるとわたしは書き物机に頬杖をついて考えた。

 

人間の脳は不思議なものだ。

 

そのときはなんのことかわからなくてもこれは重要なものだと思うと記憶の箱に閉じ込めておくらしい。その記憶のカケラが1つ、2つ、みっつよっつと集まっていくうちに脳は勝手にそのカケラを組み立て始める。

そしてある時閃くように解かるのだ。

 

 

 

わたしは以前確かにあの絵と同じような姿を見たことがあった。

 

 

夏の暮れかかる陽。すず風がふく木々の間で。

 

 

母とアンドレの姿だ。

 

 

母は木に縋っていた。アンドレはその母を後ろから抱き締めていた。

 

それまでわたしはアンドレと母が二人だけで一緒にいるのを見たことが無かった。

なにか用があるときもたいてい母は侍女たちと一緒だったし、そもそも母が直接アンドレにものを言うことは無かった。

だから最初は見間違いかと思ったのだ。

 

夕暮れの薄日と木立の影でよくは見えなかったが、母は木の幹にアンドレは母の背中に顔を押し付け二人とも泣いているかのようだった。

わたしは見てはいけないものを見た気がしてそっとその場を離れた。

 

そして誰にも言わなかった。

 

 

そんなことは忘れたと思っていたが、しっかり、記憶の箱の中に閉じ込めていたらしい。

 

 

母はわたしを産んだあと長らく身体を壊していた。

父と仲は良かったけれどもお部屋はずっと別だった。

けれど、その夏の後、母はどんどん丈夫になって健康になって父と過ごす時間が増えた。

寝室もいつしか一部屋だけになり翌年ジャックが生まれた。

 

 

 

 

 

わたしは頬杖をはずし立ち上がると母の居間へと向かった。

 

「お母さま、よろしいでしょうか?」

 

母は読んでいた本を置き目を上げた。

 

「なにか?」

 

「クレルモン家へ輿入れの際、わたしの馬を一緒に連れて行きたいのですが。」

 

「ルシンダを?」

 

「はい、アンドレにずいぶんよく世話をしてもらった馬なので。

 ルシンダに乗るたびにアンドレを思い出します。」

 

「貴婦人が馬を乗りまわすなど感心できぬ。乗馬は禁じていたはずだろう?」

 

「はい。遠乗りしたときにお母さまはひどく怒ってわたしに乗馬を禁じられました。

 でも、それが何故だったのか今わかりました。」

 

母はなにも言わなかった。

 

「乗馬がいけなかったのではなく、アンドレが供だったからですね。」

 

 

 

母とわたしは無言で見つめ合った。

 

わたしたちはアンドレの最期の時を思い返していた。