ジェローデルの唇が頬にそして唇に触れた瞬間、我にかえったわたしは思い切り彼を突き飛ばした。
捕らえられた左手を振り払って駆け出した。
ちがう、わたしの知っている口づけの唇は。
愕然とした。
男として生きてきた。そんな自分が男の唇を口づけを知っているはずがない。
でも、確かに知っている。
思い出した。もっとしっとりと、もっと熱っぽい弾力ある唇。
優しく包み込む口づけ。
この胸の動悸を収めてもらいたかった。彼の名を呼びたかった。
いつも呼び慣れたあの幼なじみの名を。
オスカル嬢に呼び出されたときからすでに結果はわかっていた。
恋する者は呼び出したりしない。
自ら駆け出して請うものだから。
わたしがそうであるように。
オスカル嬢はわたしに愛の定義を問うてきた。
真の愛とは相手の不幸を望まぬもの。
彼女の不幸を望まぬなら諦められるはずだ、とわたしに言う。
オスカル嬢への愛を誓ったわたしの言葉を逆手に取ったうまい言い訳だった。
だが、その言葉には肝心なことが抜けている。
何故オスカル嬢はアンドレ・グランディエの不幸を望まぬか?
その定義にしたがえばオスカル嬢はアンドレ・グランディエを愛しているということになる。
『わからない』と、彼女は言う。
わたしには定義を盾に迫るのに。
たぶん、オスカル嬢は今自らの心のうちに疑惑を抱いているのだ。
自分はアンドレ・グランディエを愛しているのではないかという疑惑を。
それ以上オスカル嬢を追及しなかった。
疑惑が解かれるのは時間の問題だろうし。わたしの問いによって解かれるのは嫌だった。
今、わたしにできることは失望を隠しオスカル嬢の前から去ること。
ただそれだけだ。
涼やかな風が疑惑を抱えたままのあの方の髪を揺らしているのが背中でもわかった。
fin