べルサイユ宮殿内の居室へ公爵をお送りした後、司令官室へと向かった。

扉をノックすると「はいれ」というあの方の声が応えた。

 

「ご苦労。公爵はその後落ち着かれたか?」

「は。興奮され過ぎてお疲れになられたようでお部屋へ入られると気味悪いくらい静かになられました。」

「そうか。なにぶんにもご高齢だからな。あとでもう一度様子を伺うよう部下に申し伝えてくれ。」

「かしこまりました。」

 

そのままじっと立っているとあの方が執務机から顔を上げた。

 

「なんだ?」

「あの、アンドレ・グランディエは?」

 

「ああ、今、看護係のノアイユ夫人のところへ行っている。

あいつはノアイユ夫人のお気に入りだからな。

きっと大袈裟にでかい膏薬でも貼られていることだろうよ。」

ははっ、とあの方は笑った。

 

「意外でした。」

つい、口に出してしまった。

 

「なにがだ?」

「いえ。もっと、あの従僕をお庇いになるかと思っておりましたので。」

「そうか?」

「はい。隊長はお庇いになるどころか彼の後ろへ一歩下がられました。」

「見られていたか。」

あの方は今度は上を向いて笑った。

 

 

「かりにも近衛隊長をぶん殴ったとあってはいかにブランディール公爵といえどもただでは済むまい。

国王陛下も処罰せざるを得ないだろう。

そうなったら公爵に大勢の貴族たちが同情する。

アントワネットさまのお立場はますます悪くなられる。」

 

 

 

「アンドレには気の毒だったがな。」

「それは・・・、彼は承知なのですか?」

「承知とは?」

あの方は繰り返した。

「つまり、なぜ庇ってやれなかったか彼に説明してやったのですか?」

 

 

「別に。わざわざ説明するまでもない。アンドレならわかっている。」

さらりとあの方は言った。

 

その言葉はわたしの胸をえぐった。

否定せずにはいられなかった。

「いえ!それはあらためて隊長の真意を伝えて彼を労ってやるべきです。

忠実な家臣に対する主人としての義務ではないでしょうか。」

 

そうだ!

彼はただの従僕にすぎないのだ。それを思い返していただきたい!

 

あの方は少しの間考えていた。

 

「そうか。君がそこまで言うならそうしよう。」

「はい。是非。」

「でも、わたしのほうが意外だな。君がそんなにアンドレを気にかけてくれるとは。」

「もっと冷めた男だと思っていた。」

あの方はまた笑った。

 

 

 

「ひどい目にあったぞ。」

従僕がノックもせずに司令官室に戻ってきた。

「おお。具合はどうだ?ノアイユ夫人は優しく手当てしてくれたか?」

あの方は立ち上がると従僕に駆け寄った。

ずきりとまたわたしの胸が傷んだ。

 

「あの夫人、左腕だけだと言っているのに全裸にしようとする!ほかも痛めているかもしれませんわ、とかなんとか言って。」

「それは、また。よぉく診てくれたものだな。で、何故怪我したか言ったか?」

 

あの方は大笑いしながら尋ねた。

 

「階段から落ちたと答えた。

まさか、公爵さまに杖で殴られたなどと言えんだろ。

すぐ宮廷中の噂になってしまう!」

 

あの方はわたしのほうへ片目を瞑り「ほら」と笑った。

 

「なにが、ほら、だ?」

その時になって突っ立っているのがわたしだと気づいて彼は頭を下げた。

 

「ジェローデルがな、わたしの身代わりで殴られたおまえのことをずいぶん気の毒がってくれたのだ。ちゃんと労ってやるのが主としての筋だと諭された。」

 

そんな気はさらさら無いが黙って聞いていた。

 

「それは。」

あの男もさも意外そうにわたしを見てまた頭を下げた。

「ありがとうございます。少佐。」

 

「だから彼の進言どおり礼を言うぞ。わたしのかわりによくぞ殴られてくれた。おまえの忠義、痛み入る。」

 

「やめろ。気持ち悪い。」

 

「なにが気持ち悪い、だ。ちゃんと礼を受けろ!」

 

あの方はわざと心外だというふうな顔をしながら笑いを堪えていた。

 

従僕はあの方の頭越しに言った。

「ご心配ありがとうございます。でも、主人の身代わりに殴られるのなんていつものことで慣れっこなんですよ。この方は子どもの頃からケンカっ早いんです。ケンカを売って殴りに行くのはこの方。相手から殴られるのはわたくし。」

 

「そんなこと、わたしは頼んだ覚えはないぞ。」

あの方は叫んだ。

 

「ばかやろう。おまえに怪我でもさせてみろ。おばあちゃんに俺がどんな目に合うか。ケンカ相手に殴られるほうがましだ。

ケンカ相手も慣れてきておまえに殴られると真っ直ぐ俺に向かって殴りに来るようになった。」

「そのぶんやり返してやったはずだ!」

あの方はまた笑いながら叫んだ。

 

わたしはそこに突っ立っているのがひどく間抜けに思えてきた。

 

「そうですか。ではこれで失礼いたします。

アンドレ・グランディエ、大事にな。」

 

「ありがとうございます。」

従僕はまた頭を下げて礼を言った。

 

ドアを締め越しに「どれ、傷を見せろ」というあの方に「さわるな!痛い!」という従僕の笑い声が聞こえてきた。

 

・・・あの方はあんなふうに笑うのか・・・。

初めて知った気がした。

 

 

それからしばらくしてあの方は世間を騒がせている盗賊黒い騎士を追い詰めながらも取り逃がすという失態をおかした。

その際にアンドレ・グランディエは左目を失明する深手を負ったという。

 

 

あの方は近衛連隊を辞しフランス衛兵隊へ移動した。

自ら降格人事を希望されたのだ。

 

 

わたしはあの方の代わりに近衛連隊長に昇進することになったがそんなことがなんになろうか?

 

あの方が居ない。もう、あの方と共にいられない。

 

そう思うと世界がひどく色褪せて見えた。