阪神高速、阪神・淡路大震災「震災資料保管庫」の特別開館に同行してもらったのは神戸市内に住む「おじさん」。叔父さんといってもジィジのひとつ年上で、親戚内で最も仲がいい。彼は結婚後、奥さんの両親が営む米屋を引き継いでいる。この日はちょうど休みだったので、ついてきてもらった。

 



 「地元に住みながら、このような施設があったんや?」という彼。昼食をとった回転寿司の駐車場から、歩いて10分ばかりのところに、目的の保管庫があった。

 彼は庫内の壊れた橋げたや写真パネルなどを見ながら、震災時の話を切り出した。

 地震の発生当時はまだ布団の中。「どっか~ん」という大きな音で飛び起きた。

「また、車がぶつかった」。自宅は角地に建っており、車が衝突したかと思った。しかし、その直後、大きな揺れが始まり、今度は削岩機が地面を叩き割るような音がしてきた。「地震や、逃げな」と妻を起こし、家から飛び出した。

 揺れが収まり、店(米店)の中をみると、棚から落ちた酒や商品などが床に散乱。とても商いができる状況でなかった。ここは神戸市の西端だったから、それほど被害は少なかったが、電気や水道、ガスなどが使えず、車で移動したくてもガソリンが滞っていた。

 最初に復旧したのは電気。テレビをつけると目を覆うような惨状が映し出されていた。

 少年期を過ごした場所はあたり一面、焼け野原。実家がある中央区も古い家屋の全壊が目立ち、自宅も隣の家に寄り添うように傾いていた。震災3日ほど経ったころ、地元で「米が無くなる」というデマが流れ、店に「米を売れ」と客が殺到した。「見てのとおり、ない」と拒んでも「うそだろう」「出せ」と勝手に裏口から侵入し、倉庫を物色する始末。人間の集団心理の怖さを味わった。




 あれから、29年。仮設住宅は廃止され、被災した建物や形跡はほとんどなくなった。「よう、こんな短期間で復旧できたな」(ジィジ)、「ほんま、あの地震はなんかやったんやろうな」(彼)。「あれ以降、石油ストーブ買うたで。電気が無かったら、ファンヒーターつかえへんもんな」と笑いながら話す。

 各地で発生し続ける大地震。

「うちは関係ない」「大丈夫」と思わず、日頃の備えをしてほしい。