先日、我が家で法事「お取り越し」が営まれた。
お取り越しは浄土真宗の門徒が、親鸞の忌日である11月28日に行われる親鸞忌を繰り上げ、陰暦の10月に各自の家で行う報恩講。報恩講は親鸞聖人のご恩に報いる集まりのこと。親鸞聖人が悟る「親の喜ぶこと」をすること、すなわちお勤めをする日でもある。わが家ではジィジ夫妻と母が参拝し、お経をあげ、住職の説法を聞いた。
合間をみてジィジは住職に「永代供養はできないものか?」と問いかけた。
住職は「誰の?」、ジィジ「私の」、住職「まだ、大丈夫でしょう。えらい先のことを」と笑って返した。
ジィジ「近所の寺院では樹木葬をしており、チラシなどで『永代供養30万円』などとうたっている。うちでもできないですか?」と質問した。住職は「家族が許されるのなら…」と述べ、あまり良い顔色をみせなかった。
ジィジはさらに「葬式もしたくないし、遠くにいる子どもたちに帰ってきてもらうのもしんどいから、死後の法事も一切したくないんです。このことは自身のエンディングノートにも書いているし、妻も合意している」と付け加えた。
住職は明確な返事もしないまま、帰ったが、私の意向はしっかり伝えたつもりだ。
隣の町では同級生が近所のトラブルを機に、地元寺院の門徒を離脱した。それをきっかけに若い人を中心に寺離れ、宗教離れが進んでいる。
葬儀に、戒名にいくら、四十九日、百か日、・・・などの法事に数万円をつつまなくてはならない。それに寺院の建物の修復のたびに門徒が支出を繰り返している。
田舎では当たり前だが、都会では考えられない出費だ。
住職は説法の中で「自分の好きなことをし、楽しく生きること」が人間の使命であると説いていた。残された妻や子どもたちの出費(冠婚葬祭費)がかさみ、思うようなことができなければ、人生を楽しく暮らすことはできない。だから、ジィジは永代供養で済ませたい。