そんな何やかんや思い巡らして、歩いている時、淫靡な匂いのする百軒横丁のあたりで、誰かが僕の肩を後ろからトンとたたいた。
振り返ると
、
「よっ♪」
と言って片手を上げている年配の方がいる。
その人物は、この俺から見てさえ、完全にコーディネートが失敗しているぞというような、暑そうなグレーと紺の上下のスーツに、黄色いラコステのカッターシャツを着ていて、マリナーズの野球帽を目深にかぶり、首から少々型の古いウィルコムのピッチを提げて、それはそれは満面の笑みを浮かべて俺の目を見つめている。
俺は誰かわからなかった、が、すぐにあっ!と思った。このいでたち、この振る舞い、このダサさ、
「そうか!業界の人か!しかも先輩。」
と思った。
僕の住む業界には極端な人が多い。むちゃ渋くてかっこいいダンディおじさん風か、こんな感じのどちらかである。だから、直感的にそう感じた。そして、同時に多量の汗が噴き出してきた。名前がわからなかったからである。全く名前が思い出せないのである。俺の焦燥感が、この暑さと相まって、体内からも鬼の量の体液が噴出してきた。
『誰だっけ?』
頭の中にこの言葉がうねりを持って渦巻き、なんども回帰する。エンドレスでディレイをかけたときのように、ただただ残響音がうるさい。
『誰・・だっけ・・?』
こんな状況で名前を思い出せないことは、過去何度かあったが、今回は少し違う。相手が本当に親しげな笑顔をしているからだ。やさしそうで上品な目、オシャレな髭をたっぷりとそなえ、緩んだ口元はたぶん僕の返答を待ったうえで「元気?」と言わんばかりの発声準備をおこたっていない。
『・・・・・?』
「どちらさま・・・です・・・か?」なんて、絶対にいえない。そんなに人を傷付けていい権利など俺にはない。己の不足を他人に転嫁するな、自分で、この数秒間で、解決せよという俺の脳髄にひそむ上司から指令が下された。その瞬間、稚拙で軽薄な蒸気機関的脳細胞はフル回転した。これほど頭を使ったのは、高校入試と大学入試とトイレの紙をダブルからシングルに変える決断をした時いらいだ。急速回転する蒸気機関が嫌な臭いの煙を出しはじめ、オーバーヒートのカラータイマーが激しく点滅し始めたその時、俺は、遂に、遂に口を開いて、一言、言った。
「や・・・」
この『や』は一体何の『や』だ!『やっぱり解りません』とでもいいたい『や』か!何を言っているんだこの男は。一体俺は何を思いついたんだろう。何か、名前だろうか。俺の名前は鈴木である。日本には鈴木や佐藤という名前が多いと聞いた事がある。つまりサ行から始まる名前を言って当たる確立は、他の文字に比べて箆棒に高い。じゃあ、何か!『さ』と『や』が似てるとでも言いたいのか。『母音のあ』しかあってないじゃないか!『あ』が合ってるだけなら、10文字もある(濁音省く)。じゃ、ただ単に『やあ・・』と言いたかったのだろうか。しかし、『よっ』に対して『やあ』じゃ、あまりにつれないじゃないか。俺たちは親友か。何の芸もない。『こいつ、俺の名前がわからないんじゃないか』という疑いに火をつける結果になりかねないじゃないか!
そして、何か対処しなければといけないと思った。そう、次の言葉である。次の一言でこの場の空気をすべてかえればいい。このシュールで恩知らずな空気を一掃する、究極の一言。これが今の俺には必要だ。頭の中はもう既にさっき爆発したお手製の蒸気機関が、一瞬の完全停止の後、暴走を始めようとしていた。この足の短い、小太りのエヴァンゲリオンが過激な暑さと極度の緊張で舞い上がり、暴走しそうになっている。早くしなきゃ!早く言わなきゃ!何かを考えて口を開かなきゃ!くそう、動け、動け、動け、動いてくれよおーーー(エヴァンゲリオンのオマージュ^^;)。
そして、エヴァX号機短足厚顔無恥なプロトタイプは、遂に暴走した・・・。