椅子に座らせて
泣きじゃくるウンスの前に真っ白な手巾を置いて
茶の準備をし始めたチャン・ビン
北へ向かって間もなく届いた王様への書簡に
テホグンが医仙の記憶を失くしたかもしれぬと綴られていたとお聞きした
まさかとは思っていたが その後も届く書簡には同じ文章が綴られ
それはいつしか
"かもしれぬ"
という不確実な言葉から
"記憶を失いました"
と断言する文章に変わり
それに動揺を隠せなかった王様と王妃様は苦悩の日々を虐げられた
そしてこの方がもしも戻られたら
心痛は幾許かと…
この泣き方からすると
また一人で背負ってこられたのか
テホグンは勿論
迂達赤やチェ尚宮 そして王様や王妃様に余計な心配をかけてはならぬと
一人で耐え忍んで来られたのか
「茶を飲み 落ち着きましょう」
ウンスの前にコトリと茶を置いたが
涙は次から次へと溢れ出て
それを必死に拭うので精一杯で
湯気が寂しそうに揺れていた
「そのように擦れば目が腫れます」
何度も涙を拭う手を掴んでそう言い
机に置かれたままの手巾で優しく涙を拭き取った
「チャン先生…
私…これからどうしたら…」
やっと口を開いたが
それはとても以前のようなウンスから出る言葉と比べたら
とても弱々しく この現実がどれ程ウンスを苦しめているのかが良く分かる
「先ずは整理しましょう
テホグンのような記憶喪失は有り得る事なのですか?」
「…受け止め難い事に襲われた時…
自分の心を守る為に一時的にその部分だけ記憶を消してしまう事はあるかもしれない…
でも… 不思議なのは 私の記憶だけがすっぽりと抜けてるの」
「それは確かめましたか?
テホグンは徳興君の事や徳成府院君の事を覚えておりますか?
その二人に関係する医仙の事だけが
本当に記憶から消されているのですか?」
真っ直ぐな目で語りかけるチャン・ビン
いつしかその瞳に吸い込まれるように目が離せなくなった
「そこまでは聞いていないわ…」
「医仙を脅かした二人ですが
それがテホグンにとって記憶喪失の解決の糸口になるのでは?」
「でも…それを聞く勇気なんて…」
「医仙 貴女は自らこの地で地盤を固めて来られた方です
キ・チョルの前では臆する事なく強気に演じて
徳興君の前でも貴女らしさを忘れなかったのでは?
この地に慣れるためにしてきた医仙の努力を知っております
故に 心を強くお持ちください
疲れた時は私が思う存分話を聞いて差し上げます
テホグンの元に戻りたいと思うのなら
どうか
やれるだけの事をしてください
私も出来る限りのお手伝いを致します」
一人じゃない
一人じゃないんだ
私の痛みを分かってくれる人がいる
私の背中を押してくれる人がいる
「頑張れるかな…」
ウンスの力ない声に
チャン・ビンは柔らかく微笑んだ
「今まで見てきた女人の中で
医仙は誰よりも強く逞しい
頑張れると信じております
気負わず 気長に参りましょう
焦りは禁物です」
いつだってチャン先生は
自分が一番欲しい言葉を掛けてくれる
この人がいたからここで医者として働けた
この人が居たからあの人と心を通わす事ができた
「チャン先生…」
「なんでしょう」
「生きていてくれて…ありがとう」
「トクマン お前は残ってテマンは兵舎に戻れ」
典医寺に消えていった二人を見てから
トクマンとテマン待つ場所に戻ってそういうと
"イェ"
とヨンの様子に違和感を覚えながらも
言われた通りにトクマンは典医寺の入り口に立ち
テマンはその場から去ると
背を向けた典医寺に一度振り返る
そこに二人の残像を見つけて
溜息一つ置き去りにしてその場から離れた
二人の関係に驚いたわけではない
慕う人がいると知っていて故に
それよりも驚いた事は
あの方の涙
出会いの時も涙は見たけれど
あれ程泣いてしまわれるとは…
チャン先生への気持ちの深さが伺える
どれ程会いたかった事であろう
我々の前では気丈に振る舞い
いつも笑顔を絶やさず そして周りをも笑顔にしていたあの方が
あのように泣かれるとは…
躊躇いなく胸に飛び込んだその姿が頭から離れらない
「迂達赤隊長 チェ・ヨンさん?」
兵舎に向かう途中 突然そう呼ばれてピタリと止まった足
自然と向いたその目に 見た事がない女人の姿が映った
「あ…今はテホグン様でしたね
失礼致しました」
上品な出立で頭を下げると
ニコリと笑った
「どこかで…お会い致しましたか?」
「はい 三年程前になるでしょうか
あちらの東屋で偶然お会いしまして
躓いた私が池に落ちそうになる所を助けて頂きました」
三年前…
丁度その時は何か悩みを抱え塞ぎ込んでいた時…
「申し訳御座いませぬ
記憶にございませぬ」
「そうだと思っておりました
目も合わせずに 私を助けた後去って行かれましたから…
でもその後も何度か東屋でお会いしているのですよ」
女人の口から出てくる"東屋"
思い返せばあの時は頻繁に
あの場所を訪れていた気が…
三年前…
何故こうも俺の記憶は曖昧なのか
何故数年前の事さえも思い出せないのか
何故俺はあそこまで塞ぎ込んでいたのだろうか…
にこやかな表情の女人の話は尽きる事なく
半分も頭に入らないその話を聞いているふりをした