先日は自宅の惨状のお話。
今回は職場・・沿岸部の事。
地震は長くて横にひどく揺れるパターンだった。
余震がすごくてむしろそちらの方が怖かったかもしれない。
揺れた後にすぐ津波警報がなっていた。 初期で1~2メートルくらいの
規模とか放送していたから結構大きい波が来ていたと思ったが
地元の職員はあまりピンと来ていなくて、なかなか帰宅しない人もいた。
私はすぐに家に帰ったので、沿岸部に仕事として戻ったのは
3月の末であった。 ガソリンもなくて職場まで移動が困難だったため
会社で代車を用意していてくれた。
亘理・・宮城県南沿岸はというと、TVでの報道はほとんどなかったものの
それなりに死者も出ていて、海水が陸地から引くのに1週間ほどかかったらしい。
よく報道で行ってた『東部道路(常磐自動車道)のおかげで内陸への浸水が防がれた』
というのは結構当たっている。 実際盛り土で作った常磐道より内陸は
田んぼこそ水路を伝って浸水はしていたが家屋はほぼ健在であった。
道路挟んで沿岸部は、田んぼから家までまっさらになっていた。
がれきの山はごみ処理場みたいにあったか・・・
当然、津波にさらされた常磐線はTVの報道そのもので、実際ると結構迫力がある。
周辺のヘドロのにおいは1~2年消えなかった。
田んぼの水路が海からの逆流で壊れ、田んぼも水浸し、近辺の水道なども
2か月くらい断水したり回復したりの繰り返し。
亘理沿岸一帯がとりあえずおちついたのは、つい最近去年くらいだと思う。
がれきを取り除くのに1年半くらいかかっていた。その間何百回ダンプが往復したか・・
綺麗な更地にできただけでも、相当な前進だとおもう、そのあとの建設は早いはず。
よく噂されていた、治安の悪さはないと思う。 想像よりも静かな状態だった。
電気は1年後くらいにようやく電柱とか作り直して復旧したのでそれまでは
皆相当夜は不安だったと思う。
仮設住宅は・・尋ねると皆津波の不幸話をしてくるが、
私のところも中々な被害だったのでなんとも言えなかった。
ただ、アクティブな人たちは1年ほど仮説に居てすぐに家を建てたり引っ越ししたり
と頑張っていた。 動ける人たちは1~2年で行動している。
かわいそうなのが、年寄たちで今さら家をたてる財力もなく途方に暮れていた。
沿岸部は古い大きなうちばかりだったので、皆土地と家が財産というひとが多い。
しかも、お金は皆流され、家族も何人か亡くなっているところが多いので
自力での立ち直りは難しいと思う。
今も手つかずの田んぼがあるが、あれは赤字の米つくりを放棄したか
所有者の一族が津波で全滅たかのどちらかで、今後の農業の生産も大きく
変わる要素の一つになりそうだ。
ただ、いちご(亘理はイチゴの一大産地)の生産は早くから復興した。
個別に作っていた人たちが、今は一か所で大規模に作っている。
海のものはだいぶ戻ってきているみたいだが、名物のほっき貝はどうだろう?
あのおいしい『ほっきめし』や『はらこめし』は1~2年地元のモノはつかって
居なかったはず。
岩手では津波が来たら、なりふりかまわずにげろ! 人の心配していいる場合ではない!
みたいなニュアンスの話をされるが
どこかの話を聞くと、こういう話はよくないといわれたらしい。
あの非常事態の中まず自分をどうするか、もちろん他の人もどうにかしたいのは
わかるが、他人まで世話していて皆巻き込まれてはどうしようもない。
人を蹴落としてまで自分だけ助かれ! というはなしではなく
とにかく全力でにげろ!
それだけ津波とは非常事態でせっぱつまって事なのだ
というおしえなので
変な解釈をされると、今度は本当に皆全滅の憂き目にあう。
それと、宮城県でよくニュースになっている、沿岸部での防波堤の話。
景観を損ねる。海が見えなくなる。 と言っている防波堤反対派 と
津波は嫌だ。 こういうのは仕方ない。 という賛同派が揉めているが
岩手の田老町は過去数回今回クラスの津波に見舞われ、結果そびえるような
防波堤を築いた。 今回はそれをも波はこえたようだが・・・
この町は人命を重視して不便なのに迷うことなく防波堤を築いた。
宮城県人も景観よりも、人命優先するべきだと思う。
今は津波を怖がって皆沿岸の町から転居しているが、いずれまた皆
沿岸の町を中心に集まってくると思う。 今までがそうだったから・・・
それまでに、今回の被害を教訓に津波には防御するよりも
逃げた方が正解! という回答に気付いてほしい。
今沿岸部は町がだいぶ形になっている。 県外の人たちも
一度遊びに来て、地元の人が津波で離れた観光客を集客するために
知恵を結集した、新しい名物などを堪能してほしい。
いろいろ食べ歩くと、昔よりおもしろいことになっていると思う。