そろそろ東日本大震災の発生日が近づく。
あの日の1週間前くらいにも震度4くらいの大きな地震があった。
なので、あの日も“またか”みたいな雰囲気があった。
あの当時私は宮城県でも仙台市の方ではなく沿岸の亘理町にいた。
海岸から3キロくらいの場所での勤務で、津波は職場の500M位まで来た。
あの時揺れた当初は驚いたが、一週間前にも同じような揺れを
体験していたのですぐに皆落ち着いたが、今回は揺れの時間が長かった・・
大きな揺れが3回続いたようだった。 2回ほどインターバルがあり結局
1~2分・・・もっとかな?揺れた。 そのあとの余震も大きいのが続いて
建物の中には怖くて入れない状態。
すぐ皆帰宅となり、私は仙台に帰ることに。 揺れの直後は役場の放送で
ひっきりなしに津波の警報を流していたが、地元の人たちはあまり
津波にピンと来ていないようであった。
宮城県は岩手と違いあまり津波の被害に見舞われていない地域なので
無理もないと思う。 岩手ですらあの惨状なのだから・・・
帰宅は15:00位に職場を離れ、仙台市に入ったのは18:00を超えたと思う。
国道四号線は大渋滞で、沿岸から逃げてくる車との合流で全く動かなかった。
ガソリンスタンドの人や近所の人たちが交通整理みたいなのをして誘導してくれた
おかげでそれでも、進むことできた。
ちょうど阿武隈大橋・・・橋の上で津波到来となったが、川自体はダムの放流
くらいな感じの水量であまり心配はなかった。
その間、ラジオで仙台空港の浸水の放送がでてきたり、南三陸町の音信不通
の話があったりと・・・
仙台市内も帰宅困難者で大変だったらしい。 揺れるとすぐに交通機関は完全ストップ
となるので、あれはどうにか動けれるところまで動くようにしてほしい!
なんだかんだで、自宅に到着したのは21:30くらいで、うちの回りを軽く見まわしたら
庭に何か黒い影が・・・
嫌な予感はしたが、黒いものは明日見ようと気にしないようにした。
とりあえず
窓とかは壊れていなくてほっとして家の中に・・まず“若”(名称:ぱんち)を探す!
1Fには居なくて結構探した。 暗闇の中で・・・
2Fの奥の部屋の押し入れのそのまた奥に隠れているのを発見! すごくホッとしたが
若は足ブルブルさせて、私の姿みてホッとしたような表情をして
「よかった~~! ぼく、また奥で隠れているね!」
みたいな言葉を発したような気がした。
次の日家と周りの様子を確認。
もう、がっかりした・・・・家建て1年くらいなのに・・・
庭に大きな断裂が・・・
(地震の次の朝の写真)
雪溶けた後に改めてみると、亀裂が意外と深い・・・
どうしたものか・・・
折角苦労して庭の土改良したり木を植えたりせっせと
やっていたのに…
近くの道路はこんな感じだった・・・
沿岸は津波で酷かったろうが、内陸は建物自体の倒壊は
少なかったものの、土地の崩壊がすごかった。
電気は3日後くらい
水道は20日後くらい
ガスは1か月後くらいにそれぞれ復旧。
食料は意外と手に入りやすかった。
買えればだけど・・・
ただ、野菜は近所で手に入るし、今の時代インスタント食品やお菓子が
多いのだが、水がないと調理できないものが多く意外と
野菜は初期には食べれなかった。
それと、非常時に備えてうちは電気とガスを二つ使っている(エコキュートではない)
が、電気がないとすべて動かない(笑) 盲点だった・・・
避難所にも顔を出してみたが、酷かった。
まず居るだけの状態なのだが、匂いがすごい!
トイレも凄い匂い。
今後あれは何とかできるとかなりストレスが解消されると思う。
トイレ自体は、今レンタルの仮設トイレとかあるので思ったよりも込み合っていない。
これは今の時代のいいところかもしれない。
コンビニは、二通りの店があり、食料等を早めに売ってしまって在庫を無くして
損失を減らそうとしっかりした店と、すぐ店を閉めてしばらく食料を確保して
時間差で売っていた店。 商魂たくましいのはこの時にはすこし笑えた。
コンビニに商品がないのはとても不安でさみしい。
こういう光景は今後あまり見たくはない。
水の確保も重さ移動距離の関係で酷かったが、一番問題だったのが2つ
ガソリンの確保と猫の餌の確保。
赤ちゃんのいる家は、それらの品物の確保も大変ではなかったろうか?
ガソリンはとにかくなかった。 県や市でもう少しガソリンの販売の情報を
流してほしい。
しかし、確保できている人は、少し使うとすぐ補充しに行くらしく満タンになっている
ひとがいたらしい。 もっと均等に分けてほしいものだ。
緊急車両の認定を受けた市の人達なんかは、どさくさで県外で買い物したり
車使って大量に買い付けたりと、少しやりたいほうだいだったようで・・・・
買い物の長蛇の列はごかったが(朝から並んで帰るのは夕方だった。生協は回転が早い)
あまりしこたま買い込むひとは少なかったと思う。
なんだかんだ欲しいものは大抵かえたのだから。 ただ電池だけはしばらく
品切れが続いていた。
飲食店とかは、プロパン使ってて早くから店を始めて皆に食料提供していてくれた。
いま、サバ飯(サバイバル飯)とかをラジオでやっているが、あの緊急時では
食欲ないし、食べれるだけでもマシ。
暖かいものが食べれれば尚うれしい! 美味しいのは後回し!
後日団地内の土地の崩壊の話で仙台市と話し合いの場があったが
亀裂・・それもかない大きなものを一言「クラック」とかしゃれた言葉で
言われた時はさすがに『殺意』を抱かずにはいられなかった(笑)
家がその亀裂で崩壊しかかってるのにかる~~く言われた気がして
とても嫌な気分だった。
土地はある程度直すが(道路だけ)家は自己責任で・・・が主張するところらしい。
しかし! 土地の造成の許可、検査は仙台市がやってる訳で・・・
このへんの責任の所在はどうなるのか・・・
未だにこの話はウヤムヤである。
庭の亀裂は自分たちで業者呼んで直したが、おかげで水はけの悪かった庭が
気持ちいい位に水はけよくなった(笑)
たぶん亀裂伝いに水が流れていくようになったと思う・・・・・・・・・・・
いろいろ書いたが、隣県の福島は割と近いところだが、原発どころではなかった。
宮城沖地震のときよりも、流通とか地震対策が発達していて
規模の割に回復早かったと思う。
食料の心配もあまりなかった。 それなりに皆食料を手に入れる機会はあったと思う。
地震は東北にいるうちは避けられないと思うが、ああいう大きな地震は
私が生きているうちは“なし”にしてほしい。
あ、ラジオはFMは入るが全国区なのであまりやくにたたず、AMはバッテリーが
無くなっように入りづらくなった。
電話は、スマホは全く電波が入らず(ドコモ) 公衆電話はつながらなかった。
オール電化・・・ソーラー付きはこういう時は強いね!
電気が煌々とついていてまるで不夜城みたいで頼もしかった!
エコキューとは本体が倒れて皆難儀していた。 なかの機械が壊れて使えなかったらしい。