碧海郡本郷村の植村氏は土岐氏の氏族で、妙大寺館を設けた西郷稠頼とも縁がある。

 

 室町幕府の初代美濃守護からの略系図(土岐氏、植村氏及び西郷氏)

 土岐頼貞 文永八年(一二七一)生れ 土岐氏四代目────────────┐

      室町幕府の初代美濃守護                    │

      延元四年/暦応二年(一三三九)二月二十二日死去        │

      享年六十九                          │

┌────────────────────────────────────┘

├六郎頼清 正応四年(一二九一)生れ───────────────────┐

│     延元元年/建武三年(一三三六)六月一日死去 享年四十六。   │

└七郎頼遠 生年不明 二代美濃守護                    │

      興国三年/康永元年(一三四二)十二月一日死去 享年不明。   │

┌────────────────────────────────────┘

├頼康   元応元年(一三一九)生れ 三代美濃守護────────────┐

│     弟頼雄の子義行を養嗣子とし、名を康行と改めさせた。      │

│     元中四年/嘉慶元年(一三八八)十二月二十五日死去 享年七十。 │

├三郎頼雄 生年不明──────────────────────────┐│

│     天授六年/康暦二年(一三八〇)死去 享年不明。       ││

└六郎頼忠 元享三年(一三二三) 五代美濃守護────────────┐││

      応永四年(一三九七)八月十一日死去 享年七十五。     │││

┌──────────────────────────────────┘││

│┌──────────────────────────────────┘│

││┌──────────────────────────────────┘

││└養嗣子康行 生年不明 四代美濃守護

││    応永十一年(一四〇四)十月六日死去 享年不明

│└─義行 生年不明 頼康の養嗣子となり、康行と改名した。

├──二郎頼益 観応二年(一三五一)生れ 六代美濃守護──────────┐

│     兄は庶長子光忠で長嫡子である頼忠が後を継いだ。        │

│     応永二十一年(一四一四)四月四日死去 享年六十四。      │

├──四郎頼音 生没年不明                        │

│     正平十四年/延文四年(一三五九)頃の生れ──────────┐│

│     方県郡西郷郷居住し西郷氏を称した。             ││

└──七郎光兼 生没年不明                       ││

      天授四年/康暦四年(一三七八)頃の生れ──────────┐││

      武儀郡州原郷に居住。                   │││

      明徳三/元中九年(一三九二)の相国寺伽藍の落慶供養に四十二│││

     歳の兄頼益と共に行列の後陣随兵を務めていることから、天授四年│││

     /康暦四年(一三七八)の生れと思われる。          │││

┌──────────────────────────────────┘││

│┌──────────────────────────────────┘│

││┌──────────────────────────────────┘

││└持益 応永十三年(一四〇六)生れ 七代美濃守護───────────┐

││    嫡男持兼が早世したため孫の亀寿丸(享徳三年(一四五四)~没年不│

││   明)を後継ぎにしようとしたが美濃守護代の斎藤氏がこれに反対して抗│

││   争となった。                          │

││    康正二年(一四五六)、持益は一色氏の子成頼(一四四二~一四九七│

││   )を養嗣子にさせられると共に隠居させられた。          │

││    文明六年(一四七四)九月七日死去 享年六十九。        │

│└─女某 生没年不明 上村光貞の従姉に当たる。────────────┐│

│     額田郡西郷兵庫助守頼(西三河西郷氏の祖)室。        ││

├──光泰 生没年不明 永享四年(一四三二)頃の生れ─────────┐││

│     男児一人を残して早世し末弟光貞が養育して泰兼と名乗らせた。│││

├──光長 生没年不明 永享八年(一四三六)頃の生れ 通称小次郎。  │││

│     美濃国土岐郷から三河国菅沼郷へ移り住み、菅沼資長(すけなが│││

│    )を名乗ってその始祖となったとも、三河国設楽郡野田城主富永信│││

│    資に養われた後に菅沼資長を名乗りそのの始祖となったともされる│││

│    が、菅沼氏の始まりは諸説があり定かでない。         │││

└──光貞 生没年不明 永享十二年(一四四〇)頃の生れ ──────┐│││

      通称三郎 本姓源氏で童名法師丸、後の持益。       ││││

      守護代斎藤氏の勢力拡大が当時の土岐氏一族を各地へ移住させ││││

     る大きな要因になったこと考えられる。           ││││

      武儀郡州原郷(現美濃市須原)から移り住んだという遠江国上││││

     村は天竜川右岸に近い豊田郡上村(後の月村で、現浜松市天竜区││││

     字月に当たる)で地名に因み名字を上村に改めた。      ││││

      文明六年(一四七四)に亡くなった四十歳年上の従兄で七代美││││

     濃守護だった持益(応永十三年(一四〇六)~文明六年(一四七││││

     四)九月七日)と同じ名に改めたのは持益が亡くなってからのこ││││

     とである。                        ││││

      応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)までの十一年││││

     間、管領細川勝元の東軍及び山名宗全・持豊の西軍が戦った応仁││││

     文明の乱で京都が主戦場となった。             ││││

      持益(通称三郎)が遠江国上村へ移住し、資長が三河国設楽郡││││

     菅沼郷へ移住したのはこの影響が及んだことが考えられる。  ││││

      延徳年中(一四八九~一四九二)に三河国碧海郡東端村へ移住││││

     し、西蓮寺に寓居後、出家して三入を号し西蓮寺に居住した。 ││││

      享禄三年(一五三〇)、松平清康の命により茶道生花の指南役││││

     と称して宇利城へ潜入し、享禄三年(一五三〇 )八月二十八日││││

     、清康から領知五十石などを与えられたが、その間もなく亡くな││││

     たのか良知が何処だったのかは比定されていない。      ││││

      享禄三年(一五三〇)十月から翌享禄四年(一五三一)十二月││││

     までの間に死去したものと思われる。            ││││

      西蓮寺文書に「持益侯御親子追日御忠勤担顯候ニ付大守公(清││││

     康のこと)御喜色之上持益侯へ新地五拾石外五人扶持 新六郎栄││││

     康侯へ別段御扶持并并御切米於亦安城隣村本郷村ニ御屋敷拝領被││││

     為遊候~中略~去月廿八日ニ為合カ五十石扶持方五人被下候~中││││

     略~植村三郎持益御判 九月八日西蓮寺様」と掲載されている。││││

      法名安祥院殿 持益侯(西蓮寺文書)があり、新訂寛政重修諸││││

     家譜第五(続群書類従完成会)に法名圓智とある。      ││││

┌──────光貞─────────────────────────┘│││

│┌─────光泰──────────────────────────┘││

││┌────頼音の娘─────────────────────────┘│

│││┌───持益────────────────────────────┘

│││├持兼 生年不明~康生元年(一四五五)早世 享年不明

││││   康生元年(一四五五)、亀寿丸(享徳三年(一四五四)~没年不明

││││  )を残して早世した。

│││└養嗣子成頼 嘉吉二年(一四四二)生れ 八代美濃守護────────┐

│││    実父は揖斐郡相羽村居住の饗庭元明又は厚見郡長森居住の一色義遠│

│││   とされる。                          │

│││    康正二年(一四五六)、持益は一色氏の子成頼(一四四二~一四九│

│││   七)を養嗣子にさせられると共に隠居させられて、成頼が八代美濃守│

│││   護(在位一四五六~一四九五)となった。            │

│││    応仁元年(一四六七)に起こった応仁文明の乱で成頼は山名宗全方│

│││   に付いて西軍の重鎮となり、戦乱中京都に滞在して本国の美濃を顧み│

│││   なかったことからその間に守護代斎藤妙椿が着々と美濃国内を平定し│

│││   て、東濃、西濃、中濃及び伊勢の一部まで勢力下に置くようになって│

│││   主家土岐氏を凌ぐ勢力となった。                │

│││    成頼は嗣子政房がいるにも拘らず末子元頼に跡を継がせたようとし│

│││   て、このことを密かに小守護代の石丸利光にその補佐を頼んだことに│

│││   より土岐氏及び斉藤氏の両家で家督争いに起因する内訌が生じた。 │

│││    明応四年(一四九五)石丸利光の率いる軍勢及び守護代斎藤利国の│

│││   固める軍勢が激突することになった(船田合戦)。        │

│││    明応六年(一四九七)四月三日死去 享年五十六。       │

││└─守隆 生没年不明────────────────────────┐│

││     一色義貫(一四〇〇~一四四〇)が三河国守護(任期一四一五〜││

││    一四四〇)の時の守護代。                  ││

│└──幼名不明(光貞に育てられた泰兼)                ││

├───泰兼 生没年不明 長禄四年(一四六〇)頃の生れ────────┐││

│      長兄光泰の子 通称弥左衛門。              │││

├───以也 生没年不明 寛正六年(一四六五)頃の生れ        │││

│      父三入入道(持益)と共に三州東端西蓮寺に居住。     │││

└───氏義 生没年不明 文明五年(一四七三)頃の生れ───────┐│││

       通称新五郎、後新六郎(稠頼とは又従兄弟)。      ││││

       延徳年中(一四八九~一四九二)に遠江国から碧海郡東端村││││

      へ移住(妻や住まいの情報はないが一男一女があった)。  ││││

       享禄三年(一五三〇)八月二十八日、清康から扶持並びに切││││

      米及び本郷村に良知を拝領した。             ││││

       天文元年(一五三二)頃、本郷村に完成した館へ移った。 ││││

       安祥松平家(松平宗家・徳川)の安祥城居城時代以来の最古││││

      参家臣の代表的な七家の一つに挙げられており、柳営秘鑑の御││││

      普代之列に、次のような記述がある。           ││││

       「御普代之列                     ││││

      一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、大││││

       久保、本多、元来田ニ作、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改。││││

       阿部、石川、青山、植村、西口、右七家を云。又ハ或ハ酒井││││

       、大久保、本多、大須賀、家筋無、榊原、平岩、植村共イエ││││

       リ。                         ││││

      一、三河岡崎御普代、井伊、榊原、鳥居、戸田、永井、水野、││││

       内藤、安藤、久世 元来大須賀ノ出成候、井上、同上、阿部││││

       、秋本、渡邊、伊丹、家筋残候、屋代、同上、此十六家ヲ云││││

       フ」。                        ││││

        植村氏義は矢作の南の本郷に屋敷城を構え、松平清康、広││││

       忠、元康(後の家康)に仕えた。            ││││

        天文六年(一五三七)頃、隠居して家督を譲り榮康入道を││││

       号した。                       ││││

        天文十年(一五四一)頃、享年六十九位で死亡したと思わ││││

       れる。法名寂照院殿釋勇頓 榮康侯(西蓮寺文書)。   ││││

        新訂寛政重修諸家譜第五(続群書類従完成会)には、「法││││

       名勇頓」とある。                   ││││

┌──────氏義─────────────────────────┘│││

│┌─────泰兼──────────────────────────┘││

││┌────守隆───────────────────────────┘│

│││┌───成頼────────────────────────────┘

│││├政房 康生三年(一四五七)生れ 初名頼継 九代美濃守護──────┐

││││   父成頼同様に長男頼武を排除し、次男頼芸に跡を継がせようとして│

││││  小守護代の長井長弘及び斎藤彦四郎(利親の弟)がこれを支持し、頼│

││││  武には守護代斎藤利良(利親の子)が味方して、この時も土岐氏及び│

││││  斉藤氏の両家で家督相続争いが起こった。            │

││││   永正十四年(一五一七)には終に合戦となりこの時は頼武方が勝っ│

││││  たが翌年には敗れて越前に逃れ、この内乱中の永正十六年(一五方が│

││││  勝一九)に政房が六十三歳で死去し、その後の同年に朝倉氏の助力を│

││││  得た頼武が十代美濃守護の座に就いた。             │

││││   しかし、なおも頼芸方は家督奪取を狙い美濃の混乱が続き、享禄三│

││││  年(一五三〇)に再び兄を越前へ追放し実質的には十一代目美濃守護│

││││  となったが兄頼武の跡を継いだ頼純と対立した。         │

││││   永正十六年(一五一九)六月十六日死去 享年六十三。     │

│││├高頼 生没年不明 六角氏                     │

│││├定頼 生没年不明 大畑氏                     │

│││├尚頼 生没不詳明 佐良木氏                    │

│││├元頼 生年不明~明応五年(一四九六)六月二十日死去享年不明。   │

│││└頼房 生没年不明 萱津氏                     │

││└─稠頼 生没年不明 永享七年(一四三五)頃の生れ─────────┐│

││     通称弾正左衛門。                     ││

││     細川持常(一四〇九~一四五〇)が三河国守護(任期四四〇〜一││

││    四四九)の時に守護代を勤め、その期間中の永享年間又は嘉吉年間││

││    (一四二九~一四四三)に、額田郡妙大寺郷(現岡崎市明大寺町川││

││    端)に妙大寺館を設けて西郷氏の拠点とした。         ││

││     康正元年(一四五五)、子頼嗣とともに菅生川右岸へ迫り出した││

││    龍頭山の尾の先に詰めの城として尾ヶ先砦が完成させた。    ││

││     寛正二年(一四六一)頃、隠居して青海入道を号した。    ││

│├──男某 生没年不明 文明十八年(一四八六)頃の生れ───────┐││

││     寛政重修諸家譜に「法名浄香」とあるのは大樹寺在住の植村氏│││

││    のもので、寛永系図にある大樹寺の過去帳に天文五年(一五三六│││

││    )八月二十五日死 法名淨香とあると いうものも同じである。│││

││    これによると享年五十一位となり、早世により子供が他所で育て│││

││    られたということと矛盾する。               │││

│├──教圓 生没年不明 延徳三年(一四九一)頃の生れ        │││

││     後の凰来寺二位法印。                  │││

││     早世した兄某の子泰基(後の泰職)も若くして戦死したためそ│││

││    の子泰忠を育てた。                    │││

│└──泰家 生没年不詳 明応四年(一四九五)頃の生れ───────┐│││

│      通称與三郎 後の康家。                ││││

│      享禄三年(一五三〇)八月二十八日、清康の偏諱を賜い康家││││

│     と改めると共に上村の名字を植村に改めた。        ││││

│      天文五年(一五三六)十月二十六日の松平広忠奉行人七人中││││

│     に康家のの名がある(浄珠院文書・岡崎市図書館所蔵空襲に依││││

│     り消失)。                       ││││

│      永禄十二年(一五六九)一月八日に武田信玄方へ遣わされた││││

│     徳川方の使者に植村与三郎及び山岡半左衛門とある。    ││││

│ 本多忠高 大永六年(一五二六)又は享禄元年(一五二八)生れ   ││││

│   │  天文十八年(一五四九)三月十九日死去 享年二十四又は ││││

│   │ 二十二                         ││││

│   ├────────────────────────────┐││││

├───小夜 生没年不明 大永三年(一五二三)頃の生れ      │││││

│   ├───────────────────────────┐│││││

│   男某 桶狭間の合戦後間もない頃に結婚。         ││││││

├───氏明 永正十七年(一五二〇)生れ 通称新六郎─────┐││││││

│      天文二十一年(一五五二)八月四日死去 享年三十三│││││││

│     法名榮安。                    │││││││

│      天文四年(一五三五)十二月五日に清康が尾張守山の│││││││

│     陣中で家臣阿部大蔵定吉の子部弥七郎に殺害された折に│││││││

│     は、弱冠十六歳であった氏明がその場で弥七郎を誅し主│││││││

│     君の仇を討った。                 │││││││

│      天文七年(一五三七)頃、家督を相続。      │││││││

│      天文九年(一五四〇)、広忠が渡の戦いで敗れた時、│││││││

│     大久保忠俊は堤の柳の陰に伏兵を置いて追撃する敵を防│││││││

│     ぎ、植村新六も加勢して敵を敗走させた。      │││││││

│      天文十一年(一五四二)に広忠が沓掛城を発陣した時│││││││

│     に氏明は殿の虎口を勤めたとするものがあるが、広忠が│││││││

│     岡崎城へ帰城した年であり、沓掛城を発陣したというこ│││││││

│     とはあり得ない。                 │││││││

│      天文十一年(一五四二)及び同十七年(一五四八)に│││││││

│     今川及び松平連合軍対織田軍が戦った小豆坂の戦いに参│││││││

│     戦。                       │││││││

│      天文十六年(一五四七)九月、渡理川原で信孝と戦っ│││││││

│     た時、本多忠高は堤の柳の陰に伏兵を置いて追撃する敵│││││││

│     を防ぎ、植村新六も加勢して敵を敗走させた。    │││││││

│      天文十八年(一五四九)、広忠が岡崎城内で近臣の岩│││││││

│     松八彌に襲われこの時も栄安が八彌と組み打ちの末に討│││││││

│     ち果たした。                   │││││││

│      三河後風土記に「天文十四年三月十九日、松平広忠が│││││││

│     戸田弾正頼光の娘を娶り祝いの席で皆が奇芸を披露した│││││││

│     時、一眼の岩松八彌は武勇はあるが遊芸などを知らず嘲│││││││

│     わられた。その翌日広忠が手洗い場に立った処を後方か│││││││

│     ら八彌が村正の脇差で刺そうとし、広忠はこれをかわし│││││││

│     逃げる八彌を追いかけたが、傷のため追いつくことがで│││││││

│     きず、番替わりで登城の折の植村新六郎氏明が異変に気│││││││

│     付いて逃亡した八彌を追い詰め手傷を負いながらも捕ら│││││││

│     えた。松平信孝がこの異変に気付き槍で八彌を突き留め│││││││

│     た。この時、広忠は傷を負ったが死亡には至らず、天文│││││││

│     十八年三月六日に病死した」としている。      │││││││

│      参河志に「後風土記に云う。天文十四年乙巳(一五四│││││││

│     五)三月廿日、廣忠公が不慮の災難に遭えども命には別│││││││

│     義なし。その儀を尋ぬるに譜代者の臣士に岩松八彌とい│││││││

│     うがあり、新田の末葉にて岩松の嫡子なり。比類なき剛│││││││

│     の者で度々戦に手柄を顕したり。此の者は片目のため時│││││││

│     の人は片目八彌というなり。敵方にても渠を見知ってそ│││││││

│     の片目が出たといえば軍兵その名に恐れなし、八彌自身│││││││

│     も後は岩松を名乗らずして片目八彌と名乗り自ら片目を│││││││

│     以て称号としたり。然るに今日八彌が出仕して何の仔細│││││││

│     もなく村正の刀を以て廣忠公を突き襲ったが突き損じて│││││││

│     股を突き貝吹きて逃げ走る。廣忠公も脇差を抜いて門外│││││││

│     まで追いかけたが股の痛みで追い着くことはできなかっ│││││││

│     た。そこへ植村新六郎が出仕してきて八彌彌と行き遭い│││││││

│     、二人は無手で組み合って縺れながら乾濠の中へ転び堕│││││││

│     ちたが両人とも組み放れず、折節松平蔵人信孝が出仕し│││││││

│     てきて通りかかり家来に持たせていた槍を手に取り「信│││││││

│     孝が突殺す故その敵を放されよ」と声高に叫んだ。然る│││││││

│     に「此大事な敵なれば放すこと叶わず、新六ともに突き│││││││

│     刺されよ」と八彌を放さず答える新六郎も強力であった│││││││

│     。八彌は新六郎に勝る大剛の者ではあったが酒に酔って│││││││

│     いて新六郎を取り拉ぐことはできず、上になり下になり│││││││

│     と転び続ける処を終に信孝が八彌を突き殺し、この時発│││││││

│     した新六郎の言葉の使いに人は皆大いに感じ入ったとい│││││││

│     う。この新六郎は去る天文四年十二月五日にも廣忠公の│││││││

│     父清康公を誤解して討った安部正豊を討ち取っており主│││││││

│     君二代の敵を討ち取った。誠に冥加の勇士なり。」とい│││││││

│     うようなことが記されている。           │││││││

│      松平清康も松平広忠も家臣に斬られたが、その側にい│││││││

│     て二人の反逆者を斬ったのは奇しくも氏明であったとい│││││││

│     うことである。                  │││││││

│      天文二十一年子(一五五二)八月死去、享年三十三、│││││││

│     法名観林院殿釋榮安。               │││││││

│      天文二十一年子(一五五二)八月、今川軍に従軍し徳│││││││

│     川軍と戦い尾張国沓掛(現豊明市)で戦死したとされる│││││││

│     が、この頃に今川氏が尾張国へ侵攻した史実はない。 │││││││

│      実は、永禄三年(一五六〇)五月十九日早朝、子息榮│││││││

│     政と共に松平元康軍に従軍していて丸根砦の佐久間盛重│││││││

│     を将とする織田方を攻め落とした時、戦傷して病臥し同│││││││

│     年八月四日に享年四十一歳で戦傷死したということか、│││││││

│     又は後に起こった三河一向一揆の時に馬頭ヶ原の戦いで│││││││

│     戦傷して病臥し八月四日に戦傷死したということかのい│││││││

│     いずれか、又は病死だったということであろう。   │││││││

└───十内(氏明の弟説があるが信憑性は低い)        │││││││

┌─────────氏明───────────────────┘││││││

│┌────────小夜の再婚者某───────────────┘│││││

││┌───────忠高─────────────────────┘││││

│││┌──────泰家──────────────────────┘│││

││││┌─────泰兼の子男某───────────────────┘││

│││││┌────稠頼────────────────────────┘│

││││││┌───正房─────────────────────────┘

││││││├頼武 生没年不明 文明十二年(一四八〇)頃の生れ──────┐

│││││││   初名政頼 十代美濃守護。               │

│││││││   子の頼純は天文十六年(一五四七)十一月十七日に享年二十│

│││││││  四で急死とされている。                 │

││││││└頼芸 文亀二年(一五〇二) 十一代及び十三代美濃守護。   │

││││││    天文十五年(一五四六)、頼芸及び頼武の間に和議が整い頼│

││││││   純が十二代美濃守護となったが、翌年頼純が急死して再び頼芸│

││││││   が十三代美濃守護に復帰した。              │

││││││    天文二十一年(一五五二)頃、頼芸は追放されて土岐氏の美│

││││││   濃守護の時代は終わり、近江、常陸、上総及び甲斐を経て美濃│

││││││   の稲葉一鉄に迎えられた頼芸は此処で亡くなったとされる。 │

││││││    天正十年(一五八二)十二月四日死去 享年八十一。   │

│││││└─頼嗣 生年不明 永享七年(一四三五)頃の生れ───────┐│

│││││     通称弾正左衛門。                  ││

│││││     寛正二年(一四六一)頃、父稠頼が隠居し家督を相続。 ││

│││││     文明二年(一四七〇)頃 岩津城主松平信光の五男光重を││

│││││    娘婿として迎え家督を譲って隠居することとして信光に従属││

│││││    した。                        ││

│││││     隠居した頼嗣は一家で額田郡大草郷(現額田郡幸田町大草││

│││││    )の光重の居館へ移り済んだ。             ││

│││││     文明九年(<一四七七)月日 頼嗣死去 享年四十三位。││

││││├──女子某  生年不明 永正七年(一五一〇)頃の生れ     ││

││││├──二男明季 生年不明 永正十年(一五一三)頃の生れ     ││

││││└──三男泰職 生年不明 永正十二年(一五一五)頃生れ────┐││

││││        初名泰基 通称藤右衛門 帯刀。        │││

││││        天文十一年(一五四二)八月十日、小豆坂の戦いで│││

││││       戦死。                     │││

││││       千葉県勝浦市にある植村公頌徳碑に「植村氏の出自は│││

││││      美濃の土岐氏である。遠い祖先の土岐持益が延徳年間に│││

││││      居館を遠江国上村郷に移し、その地名に因んで上村を姓│││

││││      とした。のちに植村と改め、三河に移住し、そ松平長親│││

││││      公の配下となった。その地の豪族の子氏義に三人の子が│││

││││      あり、成人して明季といい泰職といった。ともに清康・│││

││││      広忠の二代の主君に忠節を尽した。泰職左京は幼くして│││

││││      父母を喪い、そのため従祖父である鳳来寺の教円に養育│││

││││      され、薬師別当となった。元亀三年、僧兵を引き連れ三│││

││││      方ヶ原で行なわれた徳川家康公と武田信玄との戦いに参│││

││││      戦して功をげ、遠江国榛原郡に三千貫の領地を得、還俗│││

││││      し三千貫の領地を得、還俗して土佐守泰忠と称した。 │││

││││      のちに家康公の江戸開幕に際し、泰忠は上総勝浦の地を│││

││││      与えられた。晩年、また剃髪し二位法印と名乗った(以│││

││││      下省略)」ということが漢文で刻されているが内容に誤│││

││││      りが多く、これは寛政重修諸家譜第五を基にしたものと│││

││││      思われるが、泰職は初名泰基でありその子が勝浦に領地│││

││││      を与えられた泰忠である。             │││

││││       また「寛政重修諸家譜第五」に「兄氏明が彌七郎を討│││

││││      たんとせし折節、泰職その座にありて同じくこれを討ち│││

││││      止めんとせし処、灯し火消えたれば彌七郎傍らに伏し刀│││

││││      をもって拂ふ。其の刀泰職が股に当りて傷つくといへど│││

││││      も、終に彌七郎を突き伏せてこれを殺す。云々」とある│││

││││      が泰職は氏明の従兄であり、氏明が彌七郎を討ったとさ│││

││││      れる天文十八年(一五四九)には既に戦死している。 │││

││││       寛永系図に、泰職と出羽守と兄弟なり。~中略~大樹│││

││││      寺の過去帳に泰職天文五年八月二十五日死 法名淨香と│││

││││      も。しからばこのとき不在の人なり云々」とある。  │││

││││       植村氏の菩提寺は東端村西蓮寺であり、大樹寺の過去│││

││││      帳にあるのは別人である。             │││

│││└───安重 生没年不詳 永正十二年(一五一五)頃生れ────┐│││

│││       通称與三郎 宗圓入道。             ││││

││└──本多忠勝 天文十七年(一五四八)二月八日生れ。      ││││

││        徳川四天王の一人である。            ││││

││        慶長十五年(一六一〇)十月十八日死去 享年六十三││││

│├─────栄子 生没年不詳                   ││││

││        長束正家(一五六二~一六〇〇)室。       ││││

││        長束正家の父は近江国水口岡山城主水口盛里とされる││││

││        天文十八年(一五四九)に忠高が亡くなり、桶狭間の││││

││       合戦後の間もない頃に再婚した小夜と男某との子。  ││││

│└─────女某 生没年不詳                   ││││

│         中根忠実(一五四六~一六一〇)室。       ││││

│         中根忠実は信長の父信秀が商家の娘を拉致して側室と││││

│        し生ませた子(初名信煕)で母は後に水野信元の側室と││││

│        なり、母の縁の遠江国二俣城主中根忠貞の養子となって││││

│        名を忠実に改めた。                ││││

├──────家存 天文十年(一五四一)生れ───────────┐││││

│         初名栄政 出羽守 新六郎。          │││││

│         徳川家康から偏諱を受けて家政と改名し後に「家」│││││

│        を植村家子孫の通り字とする許しを得た上で家存と改│││││

│        名した。                    │││││

│         永禄六年(一五六三)九月から永禄七年(一五六四│││││

│        )正月まで行われた三河一向一揆で植村新六郎栄政に│││││

│        小豆坂の戦いで戦功があった。          │││││

│         天正三年(一五七五)五月二十一日の設楽原の戦い│││││

│        では織田及び徳川連合軍に植村新六郎や植村庄右衛門│││││

│        の名がある。                  │││││

│         天正五年(一五七七)十一月五日死去。     │││││

│         享年三十七 法名祥雲院殿。          │││││

└───氏宗 生没年不詳 通称十内 参河志は十内を氏明弟としている│││││

┌───────家存───────────────────────┘││││

│┌──────安重────────────────────────┘│││

││┌─────泰職─────────────────────────┘││

│││┌────頼嗣──────────────────────────┘│

││││┌───頼武───────────────────────────┘

││││└頼純 大永四年(一五二四)生れ 十二代美濃守護

││││    天文十五年(一五四六)に頼芸及び頼武の間に和議が整い頼純が十

││││   二代目美濃守護となったが、翌年頼純が急死して再び頼芸が十三代目

││││   として美濃守護に復帰した。

││││    天文十六年(一五四七)十一月十七日死去 享年二十四。

│││├─女某 享徳二年(一四五三)頃の生れ

││││ │  額田郡大草郷居館主紀伊守光重を婿に迎えてえて家督を継

││││ ├───────────────────────────────┐

││││ 光重 生年不明 永享九年(一四三七)頃の生れ          │

││││    岩津城主松平信光五男 紀伊守 泰全入道          │

││││    文正元年(一四六六)頃、妙大寺城主西郷弾正左衛門頼嗣の婿養│

││││   子となり娘と結婚して妙大寺館の家督を継いだ。        │

││││    延徳四年(一四九二)八月十四日の証文に松平紀伊入道泰全及び│

││││   同左馬允親貞の名がある。                  │

││││    文亀元年(一五〇一)、嫡嗣子左馬亮親貞に家督を譲って隠居。│

││││    永正三年(一五〇六)八月二十日、今川軍の侵攻により岩津城下│

││││   へ出陣した親貞が戦死。                   │

││││    永正三年(一五〇六)月日、義弟の西郷弾正左衛門を養嗣子とし│

││││   て家督を継がせ、自らは信貞と入れ替わり大草の居館へ移った。 │

││││    永正五年(一五〇八)二月二十日死去 享年七十二位     │

││││    法名高月院光重榮全大禅定門                │

│││├─信貞 生年不明 寛正六年(一四六五)頃の生れ─────────┐│

││││    文明二年(一四七〇)頃、妙大寺館から大草郷の居館へ移住 ││

││││    文明九年(一四七七)月日、父頼嗣の死によりその跡を継いだ││

││││    永正三年(一五〇六)月日、義兄及び姉夫妻の嫡男親貞が戦死││

 

││││   姉夫妻の養嗣子となった。                 ││

│││└─近宗 文明二年(一四七〇)頃の生れ 後に清孝と改めた。    ││

││├──正勝 天文四年(一五三五)生れ 通称才蔵 庄右衛門 道覺入通 ││

│││     父泰基の早世により母方の祖父飯島庄三郎(三郎右衛門)正忠││

│││    に育てられたことからこれを誤解して飯島正勝、父を植村正忠と││

││     している史料がある。                   ││

│││     子は正元、正朝、正次(寛文十二年(一六七二)十二月二十七││

│││    日卒)及び阿部重吉室。                  ││

│││     幼少期から徳川家康に仕え、天文二十一年(一五五二)の十八││

│││    歳の時に主君の前で不届き者を捕らえた。          ││

│││     永禄六年(一五六三)正月に起こった三河一向一揆で浄土真宗││

│││    から浄土宗に改宗して一揆勢と戦い蜂屋と一騎打ちした。   ││

│││     後に軍奉行に任じられ、三千貫の地を与えられ、天野康景、高││

│││    力清長とともに三河三奉行に任じられたともいう。      ││

│││     また堀江城将、浜名城将を歴任し、姉川の戦いにも従軍した。││

│││     永禄九年(一五六六)、家康の命により本多忠勝の配下となる。││

│││     天正三年(一五七五)五月二十一日の長篠設楽ケ原の戦いでは││

│││    織田及び徳川連合軍に植村庄右衛門や植村新六郎の名がある。 ││

│││     元亀三年(一五七二)十二月二十二日の三方ケ原の合戦に従軍││

│││    し家康の逃走を警護して浜松城へ退き、天野康景と共に城門を守││

│││    った。                          ││

│││     以後、長篠の戦い、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦いなど││

│││    に参戦し、家康が駿府に移った時は浜松城将として残った。  ││

│││     天正十八年(一五九〇)、小田原征伐では足柄の守備を任され││

│││    たが羽柴秀吉が女性たちを小田原へ招いた際の軍命を拒否し、秀││

│││    吉から怒りを買って改易となった。             ││

│││     戦後は子の正元が相模鎌倉郡に所領を与えられて、正勝は領内││

│││    の柏尾に蟄居となり余生を送った。             ││

│││     天正二十年(一五九二)二月四日死去 享年五十八。    ││

│││     戒名道覚、菩提寺は西蓮寺(神奈川県横浜市)。      ││

││└──泰忠 天文八年(一五三九)生れ 通称左京 土佐守 安養院──┐││

││      四歳の時の天文十一年(一五四二)八月十日に父泰職が小豆│││

││     坂の戦いで戦死したため、祖叔父である三河国凰来寺二位法印│││

││     (教圓)に育てられて土佐法印となり、後には鳳来寺薬師別当│││

││     となり安養院と号した                  │││

││      永禄九年(一五六六)、家康の命により親戚である本多忠勝の│││

││     配下となった                      │││

││      元亀三年(一五七三)に武田信玄が信濃から遠江に侵攻し、│││

││     徳川家康が三方原で迎え撃った三方原合戦に僧兵を率いて従軍│││

││     し、その戦功によって遠江榛原郡内に領地を賜り、還俗して植│││

││     村泰忠と称し、後に土佐守に任じられた          │││

││      天正十八年(一五九〇)の小田原攻めでは本多忠勝の配下と│││

││     なり、五月十九日から二十二日まで続いた岩槻城攻めに参戦し│││

││     た。                          │││

││      家康の関東入府後に上総国夷隅郡勝浦三千石を賜り、関ヶ原│││

││     の戦い後に二千石を加増されて、天正十八年(一五九〇)に攻│││

││     め落とされてから廃城となっていた勝浦城を修復して居城とし│││

││     、城下の整備にも尽力した。               │││

││      秀忠に仕えていた六十九歳の時の慶長十二年(一六〇七)に│││

││     出家して二位法印を称した。               │││

││      千葉県勝浦市にある植村公頌徳碑に「氏義に三人の子があり│││

││     、成人して明季、泰職といい、左京泰職は幼くして父祖父(持│││

││     益の兄弟になる)の鳳来寺二位法印の教圓に育てられて薬師別│││

││     当となった。                      │││

││      元亀三年の三方ヶ原に僧兵を引き連れて家康軍に属し戦った│││

││      その戦功により、遠江国榛原郡勝浦村に三千貫の領地を得て│││

││     還俗し土佐守泰忠と称した」とあるが、還俗して称した名は泰│││

││     基であり、泰忠はその子の名である。           │││

││      慶長十六年(一六一一)一月十九日 享年七十三。    │││

│└───安政 生没年不明 天文十四年(一五四五)頃の生れ      │││

│       通称庄蔵 與三郎。                  │││

├────男某 生没年不明                      │││

├────男某 生没年不明                      │││

└────家次 永禄十年(一五六七)生れ──────────────┐│││

        幼名不詳であるが、家康の嫡嗣子信康の小姓を勤め、父の││││

       死(天正五年(一五七七)十一月五日)により十一歳で元服││││

       し、跡を継いで新六郎家次を名乗った。         ││││

        元亀元年(一五七〇)、家康は曳馬城を改修して浜松城と││││

       改め本拠とした。                   ││││

        天正七年(一五七九)九月十五日、信康が二十一歳で切腹││││

       させられたことにより、家次は十三歳で流浪の身となった。││││

        信康の傅役で信康が切腹した後は弟の榊原康政に家督を譲││││

       って隠居していた榊原清政により康政に仕えることができる││││

       ようになり、更に康政の推挙により家康に仕えることができ││││

       るようになった。                   ││││

        天正十六年(一五八八)以前に家康の命により依田信蕃(││││

       天文十七年(一五四八)の生れ)の娘と結婚した     ││││

        天正十八年(一五九〇)、家康が関東へ入府後に康政は上││││

       野国邑楽郡館林村(現館林市城町)に十万石を与えられて転││││

       封し、家次は同郡内に五百石を与えられて移住した。   ││││

        家次が浜松城下へ移住してから空き家となっていた三河国││││

       本郷村の植村氏の館その他はの、上野国移住により同族の康││││

       家に与えられた。                   ││││

       慶長四年(一五九九)十月十一日死去 享年三十三。   ││││

┌──────家次─────────────────────────┘│││

│┌─────泰忠──────────────────────────┘││

││┌────信貞───────────────────────────┘│

│││┌───光重────────────────────────────┘

│││├親貞 生年不明 長禄四年(一四六〇)頃の生れ 通称左馬亮。

││││   延徳四年(一四九二)八月十四日の証文に松平紀伊入道泰全及び同

││││  左馬允親貞の名がある(岡崎領主記)。

││││   文亀元年(一五〇一)の「大樹寺連判状」に岡崎左馬允親貞の名が

││││  ある。

││││   文亀年間(一五〇一~一五〇四)に額田郡岩津の岩津城が今川氏親

││││  軍に攻められた。

││││   永正三年(一五〇六)から同六年(一五〇九)に掛けて伊勢早雲が

││││  率いる今川軍が三河へ侵攻し岩津城主松平長親(長忠)を攻めた。

││││   永正三年(一五〇六)八月二十日 岩津城下へ出陣して戦死した。

││││   享年四十七位。

│││├養嗣子信貞 生没年不明 寛正後年(一四六五)頃の生れ

││││   通称弾正左衛門。

││││   義兄光重及び姉夫妻の嫡男親貞が四十七歳位で戦死し、その弟の貞

││││  光がいたが既に他家の婿養子になっていたのか、四十歳代になってい

││││  たのか、四十歳代になって間もない頃の信貞が光重及び姉夫妻の養嗣

││││  子となった。

│││└貞光 生年不明 文明七年(一四七五)頃の生れ

│││    通称源次郎 左近将監。

│││    天文十九年(一五五〇)一月十五日死去 享年七十六位。

││├─女子((一四八九頃生))

││├─昌久((一四九二頃生)) 大草松平家 大草太郎 三河一向一揆後に追放

││├─女某(一四九五頃の生れ)刈谷城城主水野忠政正室 西郷信貞の子

│││  ├─────近守(1521頃~1556)・信元(1523頃~1576)

│││  │    ・信近(1525~1560) ・於丈の方(1528~1602

│││  │    ・松平家広正室)    ・この後に離縁

│││ 水野忠政(一四九三~一五四三) 

│││  ├─────忠守・妙春尼(妙西尼)(石川清兼室)

│││  │    ・女(水野豊信室) ・近信・忠勝・藤助

│││  │    ・屋鍋(中山勝時室)・女(水野忠守室)・忠分・忠重

│││ 継室:華陽院(青木氏の娘で実名は於富や於満とも呼ばれ、大河内元綱の養

│││   女として水野忠政の正室となったが、清康に望まれて離縁し清

│││   康の継室となった。星野秋国、菅沼定望、川口盛祐へと嫁いだ後、出家

│││   して今川邸に居住し竹千代の世話をした。

││├─源次郎助光(一四九六頃生)

│││     天文九年(一五四〇)六月六日安祥の乱で討死

││├─貞光(一四九八頃生)

││├─七郎忠親(一五〇〇頃生)

│││     天文九年(一五四〇)六月六日安祥の乱で討死 法名昌久

││└─女波留(一五〇五頃の生れ)

││   ├────────────────────

││  養嗣子清孝 永正八年(一五一一)九月七日生れ            

││   │  安祥城主松平信忠の嫡嗣子                 

││   │  妙大寺館の家督相続時に清康と改めた                   ││   ├────────────────────

││  継室 華陽院(富又は満)(一四九二生れ) 前水野忠政継室    

││      大永三年(一五二三) 譜代一門衆の願いにより父信忠が隠居

││     三河吉良の吉良持清を烏帽子親として竹千代が元服しその偏諱を

││    得て清孝を名乗り家督を継承                 

││     翌年(一五二四)五月二十八日 西郷信貞の山中城を攻め落とし

││    た後妙大寺城を攻めた                    

││     同年(一五二四)七月二十三日 妙大寺城下に陣を敷いて滞在し

││    信貞の降伏を待った                     

││     信貞は父に倣ってか清孝を娘の婿養子として家督を譲り自らは隠

││    居して大草の居館へ移った                  

││     清孝は妙大寺城と廃城とし尾ヶ先砦を尾ヶ先城に改修し岡崎城と

││   した                             

││     清孝は清和源氏の支流││氏一門である徳川氏の庶流世良田姓に

││    注目し世良田次郎三郎を名乗り諱も清康に改めた        

││     大永六年(一五二六)四月二十九日 安祥城から岡崎城へ移り本

││    拠とし清康と名を改めた                   

││     享禄二年(一五二九)、尾島城(玄西尾市内)を攻め獲る   

││     同年(一五二九)五月二十八日牧野信成の吉田城(現豊橋市内)

││    を攻め落とし吉田城へ入城した                

││     吉田城から渥美郡田原城主政光を攻め向かい城下に陣を敷き戦わ

││    ずして服従させた                      

││     この時政光は清康の偏諱を受けて名を康光と改めた      

││     吉田城へ戻って十日間逗留しこの間に宇利城主熊谷実長を除き東

││    三河の諸将が服従した                    

││     同年(一五二九)十一月四日岡崎城を出発した清康の軍勢は十月

││    六日に宇利城を攻略した                   

││     近隣諸国に名を馳せるようになった清康は西美濃三人衆などから

││    も尾張侵攻を奨められた                   

││     天文四年(一五三五)十二月三日岡崎城を出発した清康軍は岩崎

││    村(現日進市内)で陣を敷き、翌日には守山城下に入って陣を敷き

││    その翌日には城主織田信光と合流する予定であった       

││     五日の早朝出陣の準備中に放馬騒ぎがありこれを誤解した阿部正

││    豊が半狂乱となり清康を殺害し、これ以後岡崎城は弱体化すること

││    になった                          

│├──泰勝 天正六年(一五七八)生れ 通称帯刀

││   父と共に勝浦に居住し、正室は本多出雲守忠朝(一五八二生れ)の娘とさ

││  れているが、系図では本多出雲守の娘に植村某の室は見えない。

││   慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの前哨戦となった岐阜城攻略に本多

││  忠勝の配下として従軍し、本戦の関ヶ原でも武功を挙げた。

││   慶長十六年(一六一一)一月十九日、父泰忠の死去により跡を継いだ。

││   慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣では、本多忠朝に配下として従軍し

││  た。

││   大番頭まで昇進し、寛永十年(一六三三)に四千石を加増されて九千石と

││  なり、その後は㤗朝─忠朝(従五位下土佐守一万一千石) ─正朝─恒朝と続

││  いた

││   天和二年(一六八二)四月二十一日、上総、安房、近江及び丹波などに所

││  領を持っていた孫忠朝が二千石を加増されて一万千石の大名となり、勝浦藩

││  が立藩された。

││   寛永十一年(一六三五)十二月二十日 享年五十八。

│├──女子 生没年不明 文禄四年(一五九五)頃の生れ

││   家次の子家政(一五八九~一六五〇)の正室。

│└──政康 慶長五年(一六〇〇)生れ 通称平右衛門。

│    寛永十三年(一六三六)二月二十八日死去 享年三十七。

│    徳川秀忠の小姓となり大番を経て常陸国鹿島郡に百石を領した。

└───家政 天正十七年(一五八九)生れ─────────────────┐

     正室は泰忠の娘(文禄四年(一五九五)頃の生れ)。        │

     慶長四年(一五九九)十月十九日、家督を継いで五百石の旗本となり、│

    徳川秀忠付の小姓に任じられた。                  │

     慶長十三年(一六〇八)、御徒頭に任じられ、従五位下の叙され、志摩│

    守に任じられた。                         │

     慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣では徳川方の斥候を務め、戦後│

    にその功績で千石を加増され、出羽守に遷任された。         │

     寛永二年(一六二五)、第三代将軍徳川家光付となり、大番頭に任じら│

    れ、三千五百石の加増を受けた。                  │

     寛永十年(一六三三)四月、四千石を加増されて九千石の旗本となった│

     寛永十七年(一六四〇)十月十九日、一万六千石を加増されて二万五千│

    石の大名となり、大和高取藩の初代藩主となった。          │

     慶安三年(一六五〇)閏十月二十三日死去 享年六十二。      │

┌────────────────────────────────────┘

└右衛門佐家貞―出羽守家言(いえのぶ)―右衛門佐、出羽守家敬(いえゆき)―出羽守家包(いえかね)―出羽守養子家道―出羽 守家久―右衛門佐、出羽守家利―駿河守家長―伊勢守、出羽守家教―美濃守、伊勢守、出羽守養子家貴―家興―出羽守、駿河守家保(いえもり)―出羽守家壺(いえひろ・大和高取二万七千石)と続き大政奉還となった(完)。