因幡国(現鳥取県)には、巨濃郡、法美郡、八上郡、八東郡(平安時代末期に八上郡より分離)、智頭郡、 邑美郡、高草郡及び気多郡の八ヶ郡があった。

 明治二十二年(1889)十月一日の町村制施行により、末用村は広木村、閉野村、志加奴村及び水谷村と合併して鹿野村となった。

 明治二十九年(1896)四月一日の郡制施行により、気多郡及び高草郡が合併して気高郡となった。

 明治三十二年(1899)三月二十日の町制施行により、鹿野村が鹿野町となった。

 平成十六年(2004)十一月一日、気高郡の気高町、鹿野町及び青谷町が鳥取市に編入となり、同日気高郡は消滅した。

 

島根県鹿足郡津和野町の津和野踊り

 

 鳥取市鹿野町末用(旧因幡国気多郡末用村)に金剛(こんこの)城址がある。

 この城址は水谷集落と水谷川を隔てた南側の標高二九三米の山上ににあり、城主は山名氏に属した兵主(ひょうす)源六とされ、香車源五郎と同一人物視されてもいる。

 天正時代(1573~1592)の初期には、毛利氏の東漸によって兵主源六もこの勢力下に組み込まれていた。

 天正八年(1580)、気多郡志加奴村の志加奴城(後世の鹿野城)に亀井新十郎茲矩(これのり・1557~1612)が入った。

 これによりで両城の間での抗争が起こり、終に亀井茲矩は謀略によって戦わずして金剛城を攻略したと伝えられる。

 亀井茲矩は、兵主源六が無類の踊り好きだということを知り、黒い頭巾を被る衣装で、静かに舞い踊る音曲とその所作を考案し領民に教え込んだ後に、ある夜踊りの集いを催させた。

 この音曲に誘われた源六は城兵を引き連れて踊り加わり、城内に残っている者が殆どいなくなった頃合いを見計らって茲矩は金剛城へ家臣を送り込み難なく城を奪った。

 元和三年(1617)、茲矩は津和野へ転封となり、知略による無血の戦勝したことで有名な茲矩を迎えた津和野藩では茲矩が考案した踊りをお盆に踊るようになって現在に続いているのが「津和野踊り」だという。

 

 亀井茲矩知略の伝説

 時は戦国時代の織田信長が勢力を拡大して天下人に昇りつめようとしていた頃、中国地方は毛利元就が磐石の体制で抑えていた。

 信長は、毛利に滅ぼされた尼子氏再興に挙兵した山中鹿之助幸盛を援助し、その一方で家臣の羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣した。

 当時の亀井家当主茲矩は幸盛とともに戦っており、幸盛は志半ばに倒れたが、茲矩は秀吉の元で戦い続け因幡国志加奴城城(現鳥取市鹿野町にある鹿野城)の主となった。

 玆矩は、鳥取攻略を目指している秀吉から志加奴城に近い金剛城を攻略するように命じられた。

 金剛城は難攻不落で有名であり鳥取城主とも連携していて、正攻法では無理と考えた玆矩は思案中に金剛城主兵主源六が祭り好きで特に踊りが好きだということを知り戦略を思い付いた。 

 玆矩は、笛や太鼓の音曲に三味線などを加えた新しい念仏踊りを考案して城下の村々で踊らせた。

 玆矩は、天正九年(1581)七月十四日の盆の夜は普段よりも装いを凝らした踊りを金剛城の大手側城下で催す事の触れを出し、家臣には甲冑を付けさせて夕方から金剛城の搦手側から静かに山肌を登らせて金剛城の大手側へ近づかせた。

 源六や城兵の殆どが踊りに出かけたのを見届けると、玆矩の軍兵は一気に城内へ攻め込み玆矩は戦わずして金剛城を奪い取った。

 元和三年(1617)に茲矩が津和野藩へ転封となってから、津和野藩ではお盆に当主が考案した踊りを踊るようになって、これが現在に続いている「津和野踊り」の原型となった。

 

 「三河物語」にも、文明三年(1471)に松平信光が踊りで城兵を誘い出し安祥城を奪ったという件がある。