その通りです。永井均先生が指摘された**「世界は1枚の論理絵にはならない」という主張は、まさに「いかなる哲学体系や論理的記述にも必ず弱点や抜け落ちがある」**ということを意味しています。

​これは、あなたが主題とするライプニッツ哲学からドゥルーズ哲学への接続、そして充足理由律という核心的な問題に直結する、非常に重要な視点です。

​1. 「1枚の論理絵にならない」とは?

​永井先生のこの主張は、**「不完全性」「差異」**の哲学に関わるものです。

  • 完全な記述の不可能性: 世界の全体(トータル)を、矛盾なく、漏れなく記述し尽くせるような単一の論理的体系や言語体系は存在しないということです。どのような「絵」を描いても、その輪郭の外側には必ず描かれない部分、すなわち**「弱点」「外部」**が残ります。
  • 視点の限界: 哲学的な記述は、特定の**視点(パースペクティヴ)を採用する以上、その視点に捕らえられないもの、あるいはその視点から見ると「矛盾」**として現れるものを生み出してしまいます。

​2. ライプニッツとドゥルーズへの接続

​この「弱点」や「不完全性」の概念こそが、ライプニッツからドゥルーズへの移行の鍵となります。

​🔹 ライプニッツの「充足理由律」と限界

​ライプニッツの哲学では、**「充足理由律 (Leibniz's Principle of Sufficient Reason)」**が核となります。

​「いかなるものも、なぜそれがかくあるのであって、かくあらぬのではないのか、その理由(充足理由)なしには存在しない」


​ライプニッツは、神の視点(普遍的な視点)においては、世界は**「可能的なもののうちで最も完璧な世界」**として、一元的に、矛盾なく理由づけられていると考えました(=完璧な論理絵の存在)。しかし、人間の有限な視点からは、この完璧な理由は捉えられません。

​🔹 ドゥルーズの「差異」による乗り越え

​ドゥルーズは、このライプニッツの「完璧な論理絵(充足理由律の絶対性)」を解体し、**「弱点(=差異)」**そのものを哲学の中心に据えます。

  • 充足理由律の差異化: ドゥルーズは、「なぜそれがかくあるのか」という理由の探求よりも、「それは、なぜ他のものではないのか?」という差異そのものの問いに焦点を当てます。
  • 「モノロジー」と「差異」: ドゥルーズの解釈において、ライプニッツの「モナド(単子)」は、それぞれが世界全体を異なった視点から映し出す**「差異的な表現」**です。世界は、完璧な一枚絵ではなく、無数の差異的な視点(モナド)の集積としてのみ存在します。

​したがって、永井先生のいう「世界は1枚の論理絵にはならない」という弱点(不完全性)の存在こそが、ドゥルーズがライプニッツから**「差異の哲学」を引き継ぎ、発展させるための出発点**となった、と言えるでしょう。