GCCA代表・岡村優のブログ -2ページ目

激しい雨で。

雨が激しく降る様子にはっとして目を覚ますと辺りは暗く、うん?と枕元の時計を手探りすると、まだ明け方前の4時。
一旦目が覚めてみると、寝苦しいほどではないけれど、少し蒸す感じが意識に広がり梅雨に戻ったかのようだった。
その雨は朝9時になっても緩急を繰り返しながら降り続いている。
列島の北部地域では、今夏ゲリラ豪雨による被害が出たが、それらの勢力が南方面に降りてきて昨日あたりから大阪でも雨だった。
テレビではテロップで、「兵庫県芦屋・西宮市に大雨洪水警報発令」「奈良県北部に大雨警報」等の気象情報が流れている。
気温もここ豊中市は26度と夏を脱したかのようであるが、思えば、豊中市は全国二番目の高い気温で有名になったほどだから、一気に10度以上も下がった訳だ。

異常気象とかなんとか言われているけれど、然し季節は確実に秋に向けて進んでいるのだろう。
今日8月25日は、二十四節季の「処暑;8月23日頃~」、七十二候では四十候で処暑の初候『綿ぷ開(めんぷひらく)』である。
綿ぷのぷは木偏に付と書く漢字で、「はなしべ」と読むらしく、花の萼(がく)のこと。引用できなかったのでひらがなにした。
意味は「綿を包む萼が開く頃」ということ。綿の花は7月から9月にかけて黄色い花を咲かせ、その後実がはじけて綿毛に覆われた種子が飛び出し、糸や布、油に利用される。

ブログを書き始めた時、降っていた雨は小康状態なので、そろそろジムに行こうと思う。
今日は某テレビ局の24時間TVで、毎年千里中央の募金会場で歌を歌わせてもらう予定。
今週は殆ど出張で来週から9月にかけて続くけれど、またせっせと書きますので、どうぞよろしく。今日はこのへんで。

夢中になりそう!

4月からボイストレーニングに通っている。
歌うことが好きで学生時代にフォークソング(当時流行っていた。フォーククルセダーズ等全盛の頃)を歌い始めて以来、ビートルズもののロックや日本の歌謡曲等、自己流で勝手気ままに歌ってきた。
ジャズボーカルを習ってはいたが、きちっと「歌う」ことを習ったことはなく、声楽的な発声法と呼吸法による声の出し方について、今さらながらではあるけれど習ってみたかった。
私の音域はオクターブ上のG(ソ)で、それ以上の限界に挑戦したい願望も強くあったからである。
60分の本格的レッスンは、30~40分を発声に費やし、残り時間に課題曲を歌う。
最初は自分が歌いたい日本の歌で音域を伸ばす訓練をしていたが、えらいものでA(ラ)が3ケ月程で出るようになった。現在はB(シ)を目指しているが・・・。
そして、8月最初のレッスンで先生による初めての課題曲が提示された。
イタリア歌曲「Caro mio ben(カーロ・ミオ・ベン)」、日本題は「いとしい女(ひと)よ」である。
33小節3分弱の短いこの曲、どこかで聴いたことのあるきれいな曲で、流石に良い課題曲を頂戴した。
声楽家を志す人が初心者の段階で習うイタリア歌曲の内の1曲だとか、すっかり気に入ったのは良いが、これがなかなか難しい。
なにせ、イタリア語の発音は英語とは違うので、ローマ字読みをしながら苦労している。
(一度、よろしければユーチューブで聴いてみてください)

イタリアの音楽と言えば、カンツォーネと思っていたが、カンツォーネとイタリア歌曲は別物らしい。カンツォーネとは「歌」のことを意味した単語で、日本では19世紀末から20世紀のイタリア大衆歌曲、特にナポリのものを指す音楽のこと。
イタリア民謡は古くから伝承されて作者不詳のものだが、カンツォーネは近代、作曲家によって作られた流行歌なので民謡とは区別されるとか。
1960年から70年代に、日本でもジリオラ・チンクエッティやボビー・ソロが「夢見る思い」や「頬にかかる涙」が大ヒットしたが、これら所謂イタリアポップスもカンツォーネに入る。
「イタリア歌曲」という言い方は日本だけの言い方に過ぎず、17世紀から18世紀のオペラや宗教曲のアリアを19世紀に編曲・編集したものを言うそうで、カンツォーネとは全く別ものである。
有名な曲と言えば、「オーソレミオ」「サンタルチア」「さらばナポリ」「フニクリフニクラ」等がある。

「Caro mio ben=いとしい女(ひと)よ」
いとしい女(ひと)よ、
せめて私を信じて欲しい。
貴女がいないと、心がやつれる。
貴女に忠実な男は、いつもため息をついている。
やめておくれ、むごい女(ひと)よ、
そんなつれなさを。

次のレッスンまで、暇をみてはユーチューブで何度も何度も聴いている。
特に、ルチアーノ・パバロッティーやホセ・カラス、ディミトリー・ホロストフスキー等の男性歌手のそれは個性が味となってなかなか良いと思っている。
当分はイタリア歌曲に執心しそうである。

今日はちょっと長いです。「手紙」と「もどき。。。③」

『拝啓、UEH○○○様。先日は遠く豪州からのお電話ありがとうございました。そちらは連日猛暑の続く日本とは真逆の冬の季節で、寒い寒いと言って過ごしておられる由。お話をお聞きしただけで、頭を冬のイメージが駆け巡り、涼しい気分にさせて頂きました。
さて、貴殿から頂戴した苦情(「あんなしょうむない小説もどきはやめて、いつものようなブログにしてくれ」)について、確かに真摯に承りました。祖国日本を離れ、遥か南半球の地で生活されている訳ですから、拙い内容とはいえ、日本での貴殿の友人(私や仲間達)の様子や四季折々の出来事等を織り込んだブログを、それなりに楽しみにして頂いていることは重々理解しております。また、「毎回熱心に読んでいる読者の気持ちも少しは考えて欲しい」との大変ありがたいお言葉、心に沁みております。しかし、何故か私でも分からないのですが、物語を書いてみたいと殆ど発作のように思ったものですから、お許しを願うばかりでございます。しかも今までの2回は前振りで、最後の部分を書かせて頂かねば大量の残尿を残したままトイレから出るようなことになってしまいます。この宙ぶらりんの状態をスッキリさせるためにも後一度の投稿をお許し下さい。なにせ我儘勝手御免のブログということでご理解賜れば幸いでございます。それにしても、ラインはいいですね。長い時間国際間でお話しても無料なんですから。I君やS君は時代遅れで困ったものです。また、I君は手の痺れから解放された途端に、喉元過ぎれば何とやらで、結局腰の治療をおざなりにしています。貴殿がI君を心配していることを伝えておきます。なにせ彼は未だに二つ折りで国際電話等、とんでもありませんからね。
しかし結局は私たち熟年仲間たちがこれからの時間を少しでも永く元気に共有出来ることが大切だと思っております。次回は11月に来日されるとの由、祖国日本へのお帰りを楽しみにお待ち申し上げております。最後になりましたが、くれぐれもお体ご自愛ください。岡村拝』

《もどき。。。③》
鳴子温泉駅の待合所に少しづつ乗客が集まり始めたが、混み合う程の人数ではない。なんと言っても田舎の駅である。列車が来るまでまだ半時ばかり時間があった。
一人の老人が隣に腰掛けようとしたので、バックや土産物が入った紙袋を脇に引き寄せて腰を少しずらせると、「どうも」と言って隣に座った。「いえ」と小さく会釈しながら、何となく買ってきた土産物を点検しようと袋の中を検めてみた。母には鳴子のこけしを、娘にはこけしのストラップを買った。素朴な味だが胡麻の香りが香ばしい「しそ巻き」も気に入ってたくさん買い求めた。
老人も温泉の帰りなのだろうか、バックとお土産の紙袋を間においたので、お互いの荷物を間に挟んで座る格好になっていた。もっと人が待合所に入ってくれば荷物を下に置こうと思いながら、家にと思って買った「しそ巻き」の袋をそっと手にとってその袋を静かに破き一つ取り出して口に入れてみる。しその香りにほんのりとした甘さが混ざり合い、カリリとした素朴な触感が試食した時のままに口一杯に広がった。
母の故郷は栗原で私はそこで生まれたが、直後に両親は大崎に引っ越し、間もなく父が家を出たらしいのだが、勿論何も覚えていない。
同窓会の機会に故郷を訪ねてみようと思い立ったのは、永い間心の奥に張り付いた父への複雑な思いを払拭し、健気に私を一人で育ててくれた母と私の二人の親子の人生だけが自分にとって大切な人生であるという思い切りをつけようとする旅であったのだ。
記憶に残っている大崎の家は跡形もなく、街もすっかり変貌してしまっていた。心象風景と重なるものは何も見いだせなかった。然し、失望感はなかった。寧ろ、公園のベンチに座って、同じ場所にあったブランコに揺られている少女の自分を思った瞬間に、べったりと張り付いた父への思いや疑問が風に乗ってどこかに剥がれていったのだ。

「あなたはこちらははじめてですか?」と隣の老人が私に顔を向けて言った。
「えっ?」、突然に声をかけられたので耽っていた思いが現実に呼び戻されることに戸惑いを感じた。「あっ、すみません。突然失礼しました」と申し訳なさそうに老人は詫びた。
いえ、こちらこそちょっと考え事をしていたものですから、と詫びながら、「いえ、私は大崎に住んでいたんです。子どもの頃のことですが。とても久方ぶりに同窓会で、こちらに来ました。」「そうでしたか、鳴子温泉で同窓会ですか。いや、突然声をかけてすみません。丁度あなたくらいの年の娘がいましてね」「そうでしたか。地元の方ですか?」「以前は、そうでしたが、今は東京に住んでいます。娘とは永いこと会っていないもので、つい声をかけてしまいました。お許し下さい」。
気にしていなかったが声をかけられて老人を観ると、白い夏の背広にきちっとネクタイをしめた随分とすっきりとした感じの老人であった。
年のころは80歳を過ぎていようか、然し決して老け込んでいる感じではなく、矍鑠とした細面の上品な紳士である。
「鳴子温泉には若い頃よく行ったものでした。私は同窓会ではありませんが、昔の仕事仲間たちと、と言ってもだいぶ欠けましたが、残った連中と昨夜から鳴子温泉に来ていました。私は用事があって一足先に東京に帰らねばならんものですから、一人抜けてきました。」
「そうですか、それは残念でしたね。でも、久し振りに昔のお友達にお会いになって、おなつかしかったでしょう」「ええ、昨夜はちょっと羽目を外しすぎて、二日酔い気味ですよ。この歳になって少し無茶をしてしまいました。若い頃のようにはいきませんね」と老人は昨日のことを思い出すように笑った。

駅のアナウンスが列車の到着を知らせた。一つ二つ食べた「しそ巻き」の袋の口を折って紙袋の中に押し込みながら、「それでは、これで失礼いたします」と言って、バックと二つの紙袋を持って立ち上がった。
老人も「いや、お話出来て良かったです」と微笑み、支度をはじめたので、「お先に」と言って改札口に急いだ。
指定席に腰を落ち着けてゆっくりと離れていくホームを眺めながら、駅こそ違うけれど、小学生だった頃、母に連れられて東京に向かう列車から住み慣れた場所をボーッと眺めたことを思い出していた。
その時突然、頭をよぎるある予感めいたものがあって、「あっ!」と思わず声になって飛び出した。
さっき、待合所で話をした紳士はもしやして、という思いである。
しかし、一方で「そんなはずはない」とゆっくりと溶けるように思いを否定していった。母は65歳である。父は確か一つ年上だった。
待合所にいた老人は矍鑠としていると言っても66歳ではないし、メガネもしていなかった。
ではなぜ急に、「予感」が駆け抜けたのだろうか。それは、娘と接しているような感覚で私と接していたからではないだろうか。確かに私も心のどこかで父と接しているような感じがなかった訳ではなかった。あの時には気付かなかったそれらの感情が今ははっきりと自覚できる。
車窓に流れていくなだらかな山々を眺めながら、気持ちの奥底で暖かな安らいだ感じが広がっていく不思議な感覚にとらわれていた。
「もしかしたら、心の中にいた父に会えたのかも知れない」。

列車はグングンスピードを上げていく。「早く、母に会いたい」と思った。
晴れやかなスッキリした気持ちでお土産を何気なく袋から取り出して検めてみた。
別に意図した行為ではなかった。
こけしは母と叔母に、娘には・・・。主人は地酒。それとご近所に・・・。お気に入りの「しそ巻き」は5つ買って、そのうち1つは待合所で開けて食べたので・・・。「えっ?」開けていない「しそ巻き」が5袋ある。開けた袋のものと併せて6つある?おかしいな、確か5つしか買わなかったのに、とレシートを出してみてみると、確かに「しそ巻き」5つとなっている。
「おかしいわ?何故かしら」。
その時、また、声を上げそうになった。
あの時に開けた袋は自分の紙袋から出したものだと思い込んでいたが、実はあの老人の紙袋の中から取り出して、それを勝手に開けて食べてしまっていたのだ。
同じお土産屋の袋だと思ったことを今さらながら思い出した。
人様のものを断りもせずに開けて、しかも食べ残しを自分の紙袋に入れて持ってきてしまったのだ。
なんということを私はしたのか。
然し、あの老人はそのことを何も咎めず、逆に優しく語りかけてくれた。私の勘違いを最初から許してくれていたのだった。
何も知らず、もの思いに耽りながら「しそ巻き」を口にしている私に、「土地の人ですか」と問いかけてくれた。
老人は自分の娘に接するように私の行為を当たり前のこととして受け止めてくれていたのだ。
そう思い至ったとき、熱いものがこみあげてくるのを抑えきれなかった。みるみるうちに一杯の涙となって零れ落ちていくのを拭いもせず、父に会えた喜びに打ち震えた。
そして、父はどこに座っているのだろうかと考えた。

立秋

(もどき。。。③は明日以降に回します。小説もどきではありますが、何と稚拙な文章かと思われたことでしょう。お許し下さい。そして②までの流れは全てクライマックスの③以降「駅の待合所での思わぬ出来事」に繋がっていきます。このもどき。。。ですが、登場人物及び設定は全て私の空想の世界でして、実在する話ではありません。。ふとそんなイメージの物語を書きたいと思っただけのことです。すべて自己満足の世界です。よろしければ今暫くお付き合い下されば幸いです。)

さて、今日8月7日は二十四節季の『立秋』、「天高き秋の夜長に愛でる名月」の時節で
暦の上では秋。
秋は『立秋』から『立冬』の前日までで、おおよそ8月7日から11月6日頃までということになっています。収穫が飽き満ちるからアキと言われるとか、木々が赤く染まるからとか諸説あるそうです。
確かに、夜ふと見る煌々とした月に秋を感じたりもしない訳ではありませんが、まだ今の時期は夜の空を賑やかに焦がす花火のほうが相応しいようです。
また、もっと現実をみると熱中症だとかゲリラ豪雨とか、命の危険に晒される厳しい季節であり、風流に過ごすという訳にはなかなかいきません。
然し、朝晩ふと吹き込む風に僅かな涼を感じ取れるようになるのも、これまた事実です。
私が寝る部屋は窓を開け放っているのですが、今朝などは肌寒さを感じて、布団の在りかを探し目を覚ませてしまいました。
それもそのはず、七十二候では『立秋』の初候『涼風至(すずかぜいたる)~8月11日頃まで』ということになっており、意味は「涼しい風が初めて立つ」。
蝉の喧騒から虫の音色に変わるまで、もうしばらく猛暑に耐えねばいけませんが、人の五感が感じる秋は勘違いも含めて、既に来ているのかも知れません。 
『朝の間の風立秋を告げており(稲畑汀子』『蝉なべて低き木に鳴く今朝の秋(田口抱水』
立秋は夏の季語。

もどき。。②

駅の待合所はゆったりとした空気が流れていた。
彼女は誰も座っていない長椅子に荷物をおろした。履きなれないハイヒールで爪先とふくらはぎが悲鳴を上げていた。腰をおろすと安堵の気持ちが広がって緊張感が次第にほぐれていく。硬い木の感覚に少し違和感がないわけではなかったが、それでも立っているよりはましであった。
向かいの長椅子には制服姿の女子中学生達が一人のスマートホンを覗き込み楽しそうに話をしている。売店の横の少し短い椅子では小さな男の子をたしなめながら母親と老女がその間に座っている幼い女の子に笑いかけている。母と祖母と孫であることは容易に察しがついた。おばあさんに寄り添うように座る私より随分若い感じの母親を観ながら、東京で帰りを待つ母を思った。

一昨日の午後、私と母が過ごした大崎の家を訪ねてみた。然し、幼い私が育った小さな家は知らない人たちが住む今風の住宅になってしまっていた。父はこの家から出ていったのだった。
足早に通り過ぎて、いつも一人で母の帰りを待っていた公園に足を向けた。
公園は色とりどりの遊具が並び、記憶にあるそれとは違ったものになっていた。
ベンチに腰かけて瞼の奥の記憶を辿りながらあたりをゆっくりと眺めまわしてみた。座っているあたりにあったブランコに乗って帰ってくる母を待ったこと以外に、確かに私がここにいたとあかしてくれるのは外周の木々だけだった。
生い茂った葉がキラキラと光りを散らしていた光景だけは今も変わらない。

30年前ブランコに乗っていた少女が、今公園のベンチで日傘をさして佇む中年の女に変わっていることだけは確かであった。
夏の陽ざしが彼女一人だけを浮かび上がらせていた。

思えば、母は父の悪口を言ったことが一度もなかった。それは今でも変わらない。父を恨む気持ちをずっと持ち続けてきた。それは私を置いていったからではない。幼い私を抱えさせたまま母を捨てた父が許せないのだ。
何故、父は一人で勝手に出ていったのか。
その疑問は父を恨む気持ちとはまた別のところにべったりと張り付いている。
恨む気持ちと疑問が生き物のように静かに心の中で渦巻き、一方で父に会いたいという矛盾した気持ちが折り重なって澱のように溜まっていた。そして、鬱屈した気持ちを閉じ込めて生きてきた。然し、いつまでも、これから先もずっとそんな気持ちを抱えたまま生きたくはなかった。
故郷を訪ねてみようと決心させてくれたのは同窓会の案内だった。
然し、そこにあったのは母との慎ましやかな生活の断片だけで、父の事は何も思いだせなかった。影さえも見えなかった。それはしかし当然のことで、私はまだ乳飲み子だった。
積もったものが拭えるかも知れないと思った期待は外れてしまった。

母に同窓会で大崎に行くと告げたとき、「行っておいで、気を付けて」と振り向いて微笑み、ほんの一時だけ針を動かす指の動きが止まったような気がしたが表情は分からなかった。
母はまだ老け込む年ではないが、実際よりも年老いて見える。
メガネをかけなければ得意の針仕事は出来ないとこぼす母は心なしか小さくなったような気がする。
5年前、還暦を迎えた時に、それまで勤めていた会社を辞めて家の中で一番日当たりのよい一階の部屋で静かに暮らしている。娘はすっかりおばあちゃんっ子に育ち、二人で何やらいつも楽しそうに話をしている。
丁度あの時の私が母に甘えるように、娘が母に甘え、母もそれをことの他喜んでいるようである。

もどき。。。

「娘のところと叔母さんち(家)とご近所、それに母と主人にと思って買っているうちにこんなに沢山になってしまったわ。でも、これで一安心」とつぶやきながら彼女は鳴子温泉駅前にある土産物店を出た。
早く買っておこうと思いながら、ついつい買いそびれていたがあとは列車に乗るだけである。安堵の気持ちの反対側でズシリと一杯に膨らんだ土産が詰まった紙袋とバックをさげなければならず、流石に「ちょっと買いすぎたかしら」とちょっぴり後悔しながら駅へと続く道を歩きだした。
日差しが強いと感じるのは、両手の荷物のせいであろうか。
流石に駅の手前で立ち止まりベンチに荷を下ろして額の汗を拭った。見上げると記憶に刻まれた栗駒山辺りに真っ白な入道雲がムクムクと湧き上がっている。
一瞬、幼い日の自分がそこにいるような錯覚に陥ったが、ふーっと吐いたため息が幻想を消してしまった。彼女はまた、とぼとぼと歩き始めた。

宮城県栗原で生まれ、小学校卒業と共に母に連れられて東京の親戚を頼って上京した。
母についていく以外に選択肢がないことは分かっていたが、それでも、「東京には行きたくない」と一度だけ母に言ってみた。母を困らせるだけにしかならないことも良く分かっていたが、案の定、母を困惑させてしまった。母のそんな顔を観て、彼女は覚悟を決めた。
仲良しの同級生にもらった手紙をランドセルの中に大切にしまい、列車の窓に流れる見慣れた故郷へ彼女はさよならと小さく呟いた。寂寥とした侘しさはそれ以来彼女の気持ちから離れることはない。然し、それ以来母を困らせるようなことはすまいと決心したし、事実そんなことはしなかったつもりである。
父の顔は殆ど思い出せない。幼い頃に家を出ていったのだ。詳しい理由を私は知らない。母は父のことを話したがらないし、こちらからも聞かないようにしてきた。だから父は死んだものと思い込んでいる。
私は父がいない不自由を感じたことはなかった。母が懸命に父親であり母親であってくれたからだ。だから父は死んだものだと思っている。
しかし本当は時々夢で父に会っていた。丸いメガネの奥に優しい目があった。そして微笑みながら私を観て何度もゆっくり頷いてくれる。何故、頷いているのか理由はよく分からないが、「それでいいんだよ!」とすべてを受け入れてくれるような気がして、「お父さん」と呼びかけたところでいつも目を覚ます。同じ夢を大人になった今でも時々みる。
そのことを一度も母に言ったことはなかった。少しぼやけた父の顔は瞳の裏に焼き付いているので、目を閉じるといつでも父に会えた。

小学校の同窓会で30年ぶりに帰った故郷の風景は同窓生や先生の風貌同様、随分と変わっていた。
夫に同窓会の話をすると、「あー、いい機会じゃないか。ゆっくり行っておいで」と快く了承してくれた。
30年という長い年月を超えて栗原に帰る、それは私の人生には重要なことなのだ。同窓会はそのきっかけに過ぎない。
あの頃と同じ年頃の娘を持つ身になって、そしてすっかり東京の人間になってしまった今となっては、遠い郷愁で済ますことも出来るかも知れないけれど、それではかけがえのない大切な自分を地中深く埋めてしまって二度と掘り返せないような気がするからだ。
故郷の地に立って、確かに存在した父を故郷の空気の中で、空や山の元で感じとりたい。過去の自分と対峙しながら父を思い返したとき、どのような感情が湧き出してくるのか。然し、実際に行ってみなければ分からない。
未だに何もわかっていない父の面影が田畑や山々がこたえをだしてくれるのか。
(以下、次号)

長続きするコツ?

今年初めからスポーツジムに行きだして半年になります。
ながく続いて感心、と友人に言われたりします。続けるコツでもあるのか、とも訊かれますが、特にそんなものはない、と答えています。然し、よくよく考えてみると、コツと言えるかどうか分かりませんが、私なりの考えを披露することにします。
自分が好きでたまらないもの、例えばゴルフやギターの練習とか盆栽いじりのようなものはコツも何も必要ありません。問題は、習慣としてやったほうが絶対にいいけれど、継続が難しいものを続けるコツの話です。

一つは「何も考えないこと」に私の場合はしています。
今日もジムに行かなければいけないとか、今頃は混んでいるんじゃないかとか、今日行かなくても明日行けばいいかとか、続かない自分が情けないとか、色々と考えてしまうものです。
それらを出来るだけ捨てるのです。気が付いたら来ていたというような状態を作るのです。
つまり、何も考えない、物事に拘泥しない自分になりきる訳です。
「せねばならない!」と自分自身に負荷をかけると、必ず反対に「やらなければ楽なのに!」という思いが湧いてきます。
「やらなければ楽なのに」と思った瞬間、人間の脳は、やらなくてもよい理由を探すためにグルグルと働き始め、都合のよい答えを導きだして行動を合理化します。
だから、脳に考える余地を与えないようにするのです。
そして、もう一つ、良いことは一杯考えます。「楽しみを見つける」ということです。
汗を流したあとのサウナと水風呂の爽快感は最高とか、後の一杯のビールは至極の美味さとか、キリット引き締まった体になってカッコいいスーツで決めるとか、とか。
自分にとって都合のよいこと、望ましいイメージを思い描く訳です。
最後に勿論、最も大切なことは目的を最後まで忘れないということなのでしょうが、こればかりは理屈になってしまうような気がします。確かにその通りで間違いではありません。「痩せてスッキリした体型にする」「虫歯を予防する」「インナーマッスルを鍛える」「腰痛防止」等々、誰しも目的から出発するはずです。人によって達成願望の強弱はありますがいずれにせよ、長続きしないから困っている訳です。ですから、目的を最後まで忘れないと言いましたが、長続きさせるためには寧ろ逆に「目的そのものもあまり考えずに」と言ったほうがいいかも知れません。
何も考えずにやって半年も続けば、生活習慣として定着した証ですから、もうしめたものです。勿論、油断していると元の木阿弥ということもありますが。

習慣にしたいものは、「歯磨き」「早起き&ラジオ体操」「スポーツジム」「冷水摩擦」「散歩」等々の身体系や「読書」「英会話」「勉強」「日記」等々の頭系があると思いますが、逆に定着している悪い習慣を止めることは良い習慣を身に着ける以上に苦労しますし、こちらはそう簡単ではないようです。
その代表的なものは「禁煙」でしょうか。
私は、未だに禁煙を成功できずにいる一人です。
どなたか、そのコツを教えて頂けませんか。

夏になると、思い出す・・・。

夏は「雪駄(せった)」を履く。畳生地が足裏に心地よく、涼しく感じるからである。
何より靴下を履かないでいい。然し、靴を履くときは靴下を履かなければ逆に心地が悪い。街で靴下を履かずに靴を履いている人を見かけるが、あれは良くない。通気性が悪いところに裸足では、気持ち悪すぎる。
だから、靴ならば靴下を履くが、夏は裸足でいたいじゃないか。だから、私は雪駄を履く。
ついでに言えば、靴下(特に白いやつ)を履いて、サンダルを履く男性を時折見かけるが、これは最悪である。水虫でもありそうな感じがして具合が悪いし、見た目も変な感じがするではないか。

そう言えば、学生時代に「水虫の歌」という歌が流行っていた。
『どんなにどんなに離れていても、僕は君を忘れはしない、夏になると思いだす、君と歩いたあの渚、せつなくうずく水虫は、僕と君との愛のしるし・・・・・、君のうつした水虫は、今でも僕を悩ませる・・・・』
確かに学生時代、水虫に悩んでいる奴が結構いた。それもジメジメした梅雨から夏にかけてボリボリやっていた。だからそいつは夏でも靴下を履いていた。人に見られたくないから、夏の定番、裸足サンダルファッションは楽しめなかったのだ。
夏に靴下を履くから余計蒸れる水虫パラドックスは青春の夏をぶち壊すのだ。

夏に裸足で雪駄が気持ち良い、と冒頭に書いたが、うん?待てよ。
せったは雪駄だから、冬の履物か?
ウキペディアによると、「雪駄は竹皮草履の裏面に皮を貼って防水機能を与え、皮底のカカト部分にプロテクター(後金)がついた履物(草履)の一種で、痛みにくく丈夫である。また、湿気を通しにくい」とある。
私の愛用している、雪駄と思っていたものの裏には金等付いていない。
そうか、私のは雪駄ではなかったのだ。然らば、何だ?
草履(ぞうり)か。
「草履は、日本の伝統的な履物の一つ。明治時代以降に洋靴が普及するまで、日本で広く使用されていた。現代日本においては主に和装時に履く。下駄よりも格式があり、改まった履物とされる。」
近所をふらふらするときに履いているので格式も何もあるわけがないし、だいいち和服ではない。さすれば草履でもないのだ。
下駄でも、勿論ないし、一体何だ。
草履のような形をしているが、裏に留め金はなく、格式もない。
あーぁ、とはたと気づく。
サンダルなのだ。
しかし待てよ、サンダルと言えば、ビーチサンダルだ!ゴム製だ。
私のは、草履のような形をしているが、裏に金がなく、ゴム生地ではなく畳生地だ。
然らば、あの履物は一体何なんだ。
畳サンダルということにしておこう。裸足で心地よく夏を過ごせるのだから。

夏は子どもの季節!

岡村、お前どうしたんや、病気でもしているのか?と友人から電話。
えっ?なんで、と訊きかえすと、だって最近ブログ書いてないから体調でも崩しているんじゃないかと思って、と受話器の向こうから返事があった。
確かに、ここしばらく、とんとご無沙汰しているが然し、病気でもないし体調を崩している訳でもない。何となくパソコン画面に向かうのが億劫なだけだ、と答えた。
そういうことって確かにあるある、俺なんかも最近は暑くて何をするのも億劫で、ついついなんでもサボリ癖がついているって感じだよ、と同情とも慰めともつかない返事が返ってきた。
面倒な気持ちというか、中だるみしているだけで、そのうちまた、せっせと書くつもりだよ、と言って切ったが、久し振りの友の電話にちょっと嬉しい気持ちになった。
そんな訳で久し振りに書いている。

五百円玉に描かれている花はなんだったか、ご存じだろうか。
答えは桐の花と葉である。何故その話かと言うと、明日から二十四節季の「大暑」、七十二候の初候『桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)』、桐の実がなりはじめる季節である。
参議院選挙で自民党は大勝し、新聞やテレビでは阿部総理の笑顔が大写しの日であったが、内閣総理大臣の紋章も桐だとか。
桐の花は薄紫色で釣鐘のような小さな花が重なるように咲き、この時期に丸い実を結ぶ。桐は盛夏に実を結ぶ神聖な木であるらしい。
そういえば、公園では盛夏を謳歌する子ども達の声が遅くまで聞こえている。子どもは神聖な存在である、とすれば「夏」は子どもと桐の季節なのである。

一方で私はと言えば、洗車してジムに行き、瞬間体重が72kgになったと喜んで外に出ると夕立。雨を恨んでも仕方ないが、何も洗車して直ぐに降らなくてもいいのに。
夏の季節は私に酷い仕打ちをする、と思いつつ帰りに公園を横切っている時、小学生の男の子と幼稚園くらいの女の子がボールを蹴って遊んでいる。そして子どもの蹴ったボールが私の足に当たった。その瞬間を木陰で見ていた母親が頭を下げるかと思いきや、私にニコリと微笑むではないか。しかたなくこちらも微笑みを返した。
然し、何故か感じのいい母親の態度に、笑顔を返して良かったと、ちょっとだけ気分がほっこりした。
通り過ぎた後ろでは、妹を庇いつつ兄がボールを蹴っている。
やはり夏は子どもの季節、私の季節ではないのかも知れない。

梅雨明けだ!夏が来たぞ、でどうする?

例年よりも早く梅雨が明けた。
広い空をじりじりと照り付ける太陽が独占し、むくむくと立派に成長した白い雲は端っこにおいやられる。
真夏である。
いよいよ真夏なのだ。
服部緑地野外プールに行ってみようか、いっそ須磨海岸に海水浴に行くのもいいかもしれない、楽しそうだな。

近年はそういえば、夏の季節を夏らしく過ごすということなどなかった。
プールへなどは恐らく15年は行ってないし、まして海水浴となると、いつ行ったのかも思い出せない。

そうだ、海にキャンプに行こう。一石二鳥ってもんだ。いつもの仲間たちを誘って。
おじさんたち(世間的に言えば、おじいさんたちか・・)がキャンプに行ったって別に法に触れるわけでもないし、こんなに早く夏が来たんだから、行くべきだろう。
折角行くんだから日本海がいいなー、それとも思い切って瀬戸内の離島にしようか・・・。

しかし、待てよ、このアイデア、みんな賛同してくれるだろうか。
海パンがないとか、テントはどうするとか、誰が料理を作るんや、とか、とか・・。
結構揉めるだろうな。
浜辺でBBQして大酒を飲み、花火で嬌声をあげているおじさんがいるということで警察に通報されかねないし、家族連れなどからは風紀上よくないとかのクレームが入るかもしれないなー。
あちらが痛い、こちらがだるい、等という我々が海でキャンプ等、もっての他ということか。
海やキャンプというようなものは、そもそも若者のものであって、我々おじさんには縁のないものです、と言われてしまいそうでもあるわな。

しかし、折角早く夏が来たんだから、夏らしく過ごしたい。
一体、おじさんの夏の過ごし方ってなんだろうか。
色々考えるだけ夏バテしてしまいそう。