GCCA代表・岡村優のブログ
出版のお知らせ!

タイトル『ピアノの先生力-コーチングレッスンのすすめ-』
著者;岡村 優(合同会社グロウイング&コミュニケーションコーチング協会)
出版社;奈良新聞社
出版日;2012年2月2日
定価;1,000円(税込価格)

○ だから子供は正しく育つ
○ 子供を育む、全ての方の必読書
○ 『ほめる』のではなく。『勇気付け』を
○ 「目からうろこ」の指導方法とは
○ 子供の無限の可能性を引き出す!

 ≪コーチングレッスンの目的は『子供の正しい成長を実現すること』です。
本書はピアノの先生に意識と行動の変革を呼び掛けていますし、多くの大人のみなさんに子供との関係の持ち方について考えて頂きたいと思っています。
親や子供にとっては、大勢いる先生のうちの一人の「ピアノの先生」かもしれませんが、「ピアノの先生」が子供の成長に大きな影響を及ぼすとすれば、大勢いる中で最も子供の成長に影響を与えた先生になるはずです。
コーチング技術を取り入れた、生徒へのアプローチへと変えることで、それらが実現するのです。・・・・・「序章」より≫

子供を指導しておられる先生の皆様!
お子様がいらっしゃる保護者の皆様!

是非、お読みになって下さい
                                         
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また、一年が始まる!

「お元気ですか。お変わりありませんか」の一筆を見て、「今も元気で生きているんだな。よかった!会いたいなー」そんなことを思いつつ、数十年来会っていない人からの年賀状を何度も読み返す。特に親しく接し、格別の思いがある友となればなおさらである。
パソコンや携帯電話のメールで日常的につながっていられるご時世であるはずなのに、それはやらず、最もアナログな年賀状に思いを託しているのは不思議なことだが、やはり一枚のはがきが良い。見覚えのある筆跡が長い年月を一瞬に溶かしてくれるからである。
また、年に一度会うか会わない人からの年賀状はそれとは違った感覚があるから面白い。
公私共に直ぐにでも会いにいける安心感といったものを、その1枚で手に入れることが出来るからだろうか。
「今年もどうぞよろしく」という言葉がピタリとくる。

「どうしよう・・・」出していない人から年賀状をもらうとちょっと申し訳ないような気分になって、慌ててペンを走らせる。
それとは逆に出した人から来ないと少し寂しい気分になる。
コミュニケーションが出来なかった気分と同じである。しかし、何らかの事情があるのだろうと慮ってそのことは忘れるようにしている。
一番困るのは、もらった人へ出したはずだけど、確証がない場合である。
だから私は年賀状を書く際に、宛名を同時にメモすることにしている。
パソコンで住所登録しておけば宛名書きを自動的にやってくれることは勿論十分に心得ている。しかし、それがいやなのである。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら宛名書きすることが私の習慣になってしまっているからだ。
仕事現役真っ只中の頃は、31日から元旦にかけてひたすら宛名書きをしていたので正月はおちおち遊んでもいられなかったが、最近は12月25日までには書き終えることが出来る。約300枚程度を3日ほどかけるのが年末の最大の行事として定着している。

一方で電子メールの年賀状にはもの凄い抵抗感がある。人との関係を機械で処理するという感覚が嫌なのだ。
ビジネスでの関係とあらば、仕方ないとも思えるが、それにしてもやはり抵抗感は拭えない。
明治維新後、郵便制度が確立され、1873年にハガキが発行されて後、年賀状が定着したらしいのだが、更に世の中が進歩した今日、アナログとデジタルの境を混ぜ合わすことはあってはならないと思う。その境をきちんと分けて生活することで人間らしい関係を保つことが出来るような気がするのである。

アナログと言えば、元旦の夜にウイーンと同時中継される『ウイーン・フィルニューイヤーコンサート』は絶対に外すことが出来ない音楽番組である。
今年は、世界的な指揮者、ダニエル・バレンボイム氏が素晴らしかった。
「美しく青きドナウ」に続いて、お決まりのアンコール曲「ラデッキー行進曲」。軽やかな小太鼓で始まるが、バレンボイム氏は指揮台にはいない。なんと狭いオーケストラ団員の間を譜面台を避けながら一人ひとりと握手や抱擁を交わしながら、狭い中を廻るパフォーマンスをしたのだ。楽団員はバレンボイム氏が来ると演奏を止めて立ち上がり握手を交わす。
観客は勿論手拍子を忘れない。バレンボイム氏は時にその場で会場に向かって小さく手拍子させたり、大きく打たせたりと指揮をするのだが、曲が終える頃に、漸く回り終えて指揮台に戻ってくる。
その時会場全体が一体になって2014年のコンサートが終わった。
人と人のつながりは、年賀状であれ、握手であれ、抱擁であれ、デジタル世界にはない肌の温もりが伴わなければいけないのである。
そんな当たり前のことを思った正月元旦だった。

回想の巻・転職編その6

ラジオでは紅白歌合戦が流れている。森田公一とトップギャランの「青春時代」を地区本部へ向かう車の中で聞いていた。今年この曲を何度聞いたことか。取り立てて好きな曲という訳ではないが、歌謡曲的なロックとでも言うか、妙に日本的であり、昭和な雰囲気を持った曲だ。
「♭青春時代のゆめなんて、あとからほのぼの思うもの・・・」
年末の仕事を全てやっと終えた。街はまだ眠っていない。新年を迎えようとする人々の息遣いで煌々としている。しかし、いつも感じる大晦日の空気ではなかった。八百屋時代のこの日は一年で最も活き活きとして、そして疲れ果て、満足感とは別のところで身体が休息を求めていた。今年はその感触とも全く違う。妙に落ち着いた気分が広がっているのだ。初めて味わう感覚である。そして、その感覚が転職したことを改めて思い起こさせる。
舞台が大きく回転した年が暮れようとしている。

12月に入って過去最高の円高(1ドル=240円割れ)になり、景気への悪影響が益々深刻化していた。各企業は輸出に活路を見出そうとするものの、米国やEC諸国からは対日輸入を制限され、国内消費は冷え込んだままむかえた年の瀬であった。
今年は巨人の王選手がハンク・アーロンの本塁打記録を塗り替え、第一号の国民栄誉賞を受賞した。日本赤軍による日航機ハイジャック事件が世間を騒がせ、巷では「カラオケ」が大流行し、「話がピーマン」という言葉が流行した。中身がないという意味で、このころから日本人は社会の中で生きるという本質を脇にどけて、個が個のままで生きられると勘違いし始めたように思う。

社会が大きく変化する中で、私は漸く社会人としての第一歩を踏み出していた。
大学時代ろくに就職活動などせずバンド活動に現を抜かし、給料が高いという理由だけで不動産ディベロッパーに入社し、2年後に会社が倒産してからも就職ということを真剣に考えず、先輩の誘いで青果業に就いた。学生アルバイトのような遊びの感覚で。
それでも仕事は楽しかった。楽しさの延長線上で少しは社会の構造やシステムを学ぶことは出来たが、好き勝手に生きるという点では、本物の社会人とは程遠いところにいた。
同世代の友人などが、企業活動を通して社会システムを学び成長しているのとは大違いである。
それでも、漸く6年遅れて大人への階段を上り始めた。
それは意識の中である種のコンプレックスとして潜在していたが、一方でそれが自分の原動力であったのかもしれない。

大晦日の地区本部事務所では、総務経理社員全員が年度決算書類作成のために全拠点から集められた売掛金等の書類や伝票に埋もれ、わき目も振らず仕事をしていた。
事務所の真ん中では地区長を中心に会社の主だった者の酒席になっていた。
年内の売掛金を回収し仕事を終えた責任者達が続々と集まってくる。西大阪出張所の加田所長とともに本部に着いたのは11時を少し回っていた。
「地区長、やっと終わりました」「おー、加田ちゃん。ご苦労様でした。ここに座って一杯やろう」「ありがとうございます。来年から1部の京都営業所に行きますので、よろしくお願いします」「そうだったな。後任は・・・・」「岡村さんです」「そうそう、岡村さん。よろしくお願いします。年末はあちこち行かせてしまって。大変だったね」「いえ、皆さんには良くして頂きました」
地区長の周りの10名程の中に座らされて酒を勧められた。周囲は思い思いに酒を飲み、談笑している。
「来年は私も北海道地区に異動だ。みんなともお別れだな。寂しいよ」「地区長、お世話になりました。どうぞ」と言って年配の男がビールを注いだ。それを潮に席を離れて、経理担当者の席に行った。「書類の不備はありませんでしたか」「ええ、大丈夫でした。2件を残してしまいましたね」「みんな完全回収出来ているのですか」「そうですね。今のところ15拠点くらいでしょうか」とその男は黒板を指さした。
そこには、拠点名の下に今年の売掛金未回収総残高と回収金額が記載されている。刻々と入る入金済の報告で数字が書き換えられる。「泉南はどうですか」「えっ、あっ泉南で仕事をされたのでしたね。大畑所長からはまだ報告がありません」黒板には、泉南の残高が記されていた。僅かの日数しか手伝えなかったが、少しは役に立ったのだろうか。
年末の2週間あまりは来年から受け持つ西大阪の加田所長から引継ぎを受けたり、集金がてらエリアを確認したり、配送員に同乗したり、忙しい日々であった。泉南の大畑所長とは15日に電話で話しをしたきりだった。「西大阪にいくことになりました。今からそちらに行きましょうか」「いえ、それには及びません。書類もきちんとしてくれていますので。それよりもいきなり西大阪は大変ですね。直ぐにそちらに行かれた方がいいですよ。こちらは心配しないで」「ありがとうございます。とても名残惜しいのですが。皆さんとも仲良くなれたところで残念です。どうぞよろしくお伝えください」「分かりました。では、またお目にかかりましょう。私は今から集金にいきますので」「それでは失礼します」
誠実な大畑所長と電話で話をしたのが遠い昔のような気がする。
時計は午前0時を回った。一人二人と赤い顔をした人たちが引き上げていく。そのたびに「お疲れ様でした。よいお年を」と声を掛け合う。
その日と言っても1978年1月1日になっていたが、名前も顔もまだ分からない人たちに声をかけて事務所を後にした。
冷えた運転席に座ってブルッと身震いをした。車を走らせながら、そういえば除夜の鐘を聞いていないことに気付いた。

回想の巻・転職編その5

午前5時はまだ暗く夜が明けているわけではない。フロントガラスにビッシリと張りついた霜を用意したプラスチック片で端からこすり落していく。指の感覚が直ぐになくなるが、これが最も早い対処法であることを八百屋時代に経験していた。軽保冷車のエンジン音が眠っている家々の静寂を突き破った。
食材メニュー宅配というビジネスを肌で感じながら、昨日は20軒ほどの顧客への配達を午前中には終えていた。そして、夜遅くまで所長から依頼された集金をした。そして殆んど回収遅延金が無くなった。その程度の仕事はベテランの配送員と比べると、はるかに少ないものかもしれない。しかし、仕事量とは関係のないところで、満ち足りた思いが沸々と湧き上がり気持ち一杯に広がり、そして今朝もその感触は無くなっていない。
所長が喜んでくれたからなのか、それとも八百屋時代とは比べものにならないほど大きな組織でやれるという実感があったからなのか。
野菜や果物を販売する小さな世界から、勢いで飛び込んだ世界であった。果たして自分の追い求めていたものが本当にここにあるのかという不安感は常に付きまとっていた。そんな気持ちの揺らぎがいつしか止まっていることに気付いたからかもしれない。
八百屋時代にも冷え切った朝があり、最近では中央市場に出かけることが嫌な時もあった。自分の仕事なので辛いわけではないが、やりたいことは何かということを考え始めた頃からそんな気持ちになり始めていた。自分に納得できる目的を見失っていたからなのだろう。しかし、今それはない。1時間半かけて、大阪の北部から南部まで車を走らせて仕事に向かうことにワクワクした感覚さえあるのだ。

午前中の配達は昨日より30分程早く終わった。たった一日の違いで仕事のコツが呑み込めたという訳ではなかった。出発が早かっただけだが、作業や事務処理のスピードが速くなっている分、全体として効率よく仕事が出来るようになったと言える。
「所長はお出かけ?」事務員に聞くと、休んでいるパートのコースの配達に行っているとの返事があった。
「ちょっと食事に行ってきます」と声をかけて、外に出た。
12月の冷たい風が頬にあたる。しかし、寒さを感じることはなかった。一仕事終えた満足感の方が優っているのかも知れない。
夕方、作業場で事務員がやっている頒布会商品の仕訳を手伝った。T社は食材メニュー以外にも、調味料やジュース類、お菓子類の特選品を販売している。それらは一週間のメニュー冊子に掲載されている。それらの定番品とは別に特別頒布会として、地区毎に様々な商品を販売している。米や地元の特産品や家庭雑貨品、化粧品にいたるまで、実に様々な商品がある。それらは工場からの定期便以外に、業者から直送されてくるものもあり、送られてきたのは「カニ鍋セット」であった。
「4セット余ってしまいましたが、間違ったのかな?」「それは販売キャンペーンで配送員が獲得したものやわ。20セット販売した配送員にはもれなくこのセットがもらえるの」「へー、そうですか」
このように配送員へのキャンペーンは季節を問わず、いつも行っていると事務員は説明した。他にもお米やクリスマス商品、おせち商品などがキャンペーン商品として全国共通のものや地区独自に展開されるものがあり、賞金の場合が多い。

所長が事務所に戻った。
「おかえりなさい」「ただいま。今日は順調でしたか」「はい、だいぶん様子が呑み込めてきました」「それは良かったですね。ところで、明日は配達が終了したら地区本部に行って下さい。明日15日は辞令交付日ですから」辞令交付日には、昇給賞与辞令の他に、昇格や異動の辞令も交付される。本来は各センターごとに実施されるのだが、私は地区本部付なので、そちらで交付を受けるようにとの指示であった。

12月15日午後4時、地区本部に所属している社員が一同に3階の事務所に並んでいた。関西地区長がひとしきり一年の振り返りと年末商戦へ意気込みを語り、辞令交付になった。
明らかになった大きな異動では、関西地区に東京本部から松尾部長が着任すること。更に、食材2部では、現在の地区3センターを分割して、淀川センター、泉北センター、西宮センター、淀センターの4つにセンター分割し、西宮センター以外のセンター長には、松尾部長が東京から3人のセンター長を伴ってくるという話であった。
T社のこの年の人事案は全国のエリア構想を抜本的に見直す大胆な内容であった。中でも西日本の販売網整備に本腰を入れ、その中核前線基地を関西地区本部は担うことになった。従来の関西地区長は課長クラスであったことを思えば、T社で当時優秀と目され信頼を集める松尾部長始め3名のセンター長を同時に異動させたことでも、会社が寄せる彼らへの期待が窺える。
入社間もない私にとっては雲を掴むような話ではあったが、会社が展開しようとしている構想の意味あいは十分に理解出来た。と同時に、ちょっとやった仕事くらいで満足を味わっている自分の存在ってなんなのだろうという思いが頭をよぎった。
「昇格、異動は以上です。さて、登用人事ですが、岡村さん!岡村さんはいますか」総務の係長が私の名前を呼びあげた。一瞬何が起きたのか理解出来なかったが、「はい」と返事をした。「岡村さん、あなたには来年1月1日付をもって、淀川センター西大阪出張所担当になって頂きます。所長ということではありませんが、前任の加藤所長に代わって、同出張所の管理全般をお願いします」と言って辞令を渡された。
辞令交付が終わり、ぞろぞろと社員たちが昇給明細と賞与明細の袋を覗き込みながら事務所を後にした。
私は所在無げにその場に立ち尽くしていた。地区本部で知っている人がいるはずもなく、ただどうしていいか分からずにいた。
すると、総務寺田係長が私を見つけて笑顔で歩み寄ってきて「泉南での仕事ご苦労様でした。もの凄くよく働く新人が来たと言って、喜んでいましたよ。岡村さんならすぐにでも所長の仕事が出来るってね」「あー、その、ありがとうございます。ところで私は明日からどうすればいいのですか」「出来れば西大阪出張所に明日から行ってもらいたいのですが、泉南での仕事の引継ぎもあるでしょうから、大畑所長と相談してください。今日はもう帰っても構いませんよ。それと西大阪には一度電話入れておいてください」
入社して今日でまだ5日目である。食材1部の営業で入ったはずなのだが、ふと気が付けば食材2部の拠点を任されることになっていた。急流にのって下流まで一気に滑ってきたような気分だった。一方で今朝、充実感で満ちていた心の容積が数倍ほどに膨らみ、空間がぽっかりと空いているような感じが襲ってきた。
1977年12月。27歳の年の暮れはあと2週間ほどを残すのみであった。

回想の巻・転職編その4

「おはようございます」次の朝、7時前に泉南出張所に出社した。
既に、配送員たちは作業場で慌ただしく作業をしてる。T社の淀川出張所で朝見かけた同じ光景である。
家庭用食材メニューはリーズナブルなものからやや高級なものまで数種類のコースがあり、それぞれ2人用3人用4人用がある。配送員は顧客ごとに注文されたメニューを袋詰めしていく。間違えないように袋にはコース名が印刷されており、人数ごとに色分けされている。それを配送順に配送用コンテナに区分けして保冷車に積み込んでいく。
食材はそれぞれのセンターにある工場から深夜便で出張所の冷蔵・冷凍庫まで届けられているのである。
所長の指示で私用に割り当てられたコース分の仕訳作業をした。作業の要領は直ぐに呑み込めた。冷凍された食材はビニール袋に入れて専用の保冷庫に入れ、常温の野菜などはメニューごとに袋詰めされたものをチェックしてコンテナに入れていく。それらを配達時に一つにセットして指定された場所にある顧客用の小さな保冷ボックスに配達するのである。
コースを割り当てられたと言っても、20軒ほどなので作業は直ぐに終わった。しかし、作業場はまだ慌ただしく動いている。
センター工場からは当日の全体量だけが送られてくるので一切の余分はない。一つ間違えれば全員が一から数量点検せねばならず、緊張した雰囲気が冷え切った作業場の空気を突き破っている。配送員の中には100件以上の配達コースを持つ人もいて、黙々と忙しげに作業に没頭している。それらの人は会社と契約をした完全歩合制の配送代理店の人たちである。
私用の臨時のコースはそれら代理店の顧客を割り振られたわけではない。社員やパート配送員から少しずつ分けられて構成されたものである。
「作業は終わりましたか」所長から声がかかり、事務所に手招きされた。「配達は午前中に終わると思います。午後からはお願いしている集金をしてください。あとはお任せしますので、定期的に事務所に電話だけ入れてください」「分かりました。もう出かけていいのですか」「いえ、全員の作業が終了してからです。朝礼をしますので、その際皆さんにもきちんと紹介しますから」
作業はまだ30分程はかかりそうだ。所長がそれだけを話すと作業場に行ったので、私も後に続いた。
所長と配送パートがなにやら話をしている。数量が合わないらしい。食材を一旦全部出して再点検するらしい。「私も手伝います」「いえ、いいです。他の人に入られたらややこしいから」「折角手伝おうと言ってくれているのに、そんな言い方はないでしょ」所長がパート配送員をたしなめた。50過ぎの小柄な女の人だった。ピリピリした雰囲気を全身から発散しながら、動き回り人と目を合わそうとしない。「Kさん、落ち着きましょうよ。配送表の数量とここに出した食材とが一致するか確かめてから、袋詰めしないとかえって混乱しますよ」「はい」と配送員は答えたが、イライラしている態度が改まった訳ではない。所長はそんな彼女を気にせず「岡村さん、メニューごとに一つずつ数量を読み上げてください。Kさん、私は冷凍食材をチェックしますので、あなたは袋とその他の食材の数量を確認してください」確認作業は10分程で終わった。冷凍食材が一つ足りないのと、袋が一つ余分に余っていた。「どこかに豚バラ100gパックが一つ余っていませんか。それと、Aコースの袋が足りない人はいませんか」所長がみんなに声をかけた。「豚のパックなら冷凍庫の中に一つあったよ、確か」代理店が作業をしながら言った。「Kさん、冷凍庫を確認してください」先ほどまで一杯だった庫内が、人が二人同時に入ることが出来る程になっていた。冷気がピリッと頬に張り付いてくる。黄色いコンテナの中にそのパックはあった。「すみません、ありました」とKさん。
余っていた袋は他のパートのものであることも判明して、朝の作業は無事に終わった。

「みなさん、手伝いに来て頂いている営業の岡村さんです。岡村さん挨拶してください」朝礼でみんなに挨拶が済み、事務員さんと請求書の確認や明日の配送確定数量を一覧表に書き込み、朝のルーティンを終えた配送員から慌ただしくエンジンを始動させて順に出発していく。時計をみると9時を少し回ったころである。作業場は社員たちの手できれいに清掃されていた。

八百屋時代は商品を一つずつ来店客に販売するので、商品が全てきれいになくなることはないし、仮に全てを完売するためには相当の時間を要する。しかし、食材宅配ビジネスは在庫ゼロになる。野菜や果物を扱う商売とはくらべものにならないくらい効率的なのだ。しかも、エリアはいくらでも広げることが出来る。無店舗販売の強みである。
「これやったんや!」食材1部の営業として入社したが、八百屋時代に何となく抱いていた、やりたい仕事が家庭用食材宅配ビジネスだったことを、今朝はっきりと自覚したのである。
それは2年程前にテナントとして入っていたスーパーマーケットの店頭で、ふと脳裏を駆け巡った思いだった。
八百屋は地域の住民の生活を守るためにある仕事なのだが、野菜や果物の流通の仕組みや商品知識を得て、また、商売のイロハを理解してからは毎日の同じことの繰り返しの日々であった。一緒に仕事をする仲間も増えて勿論それなりには充実してはいたが、何かが物足りなかった。もっと広い社会の中で培ったものを試してみたいという思いが日増しに膨らみ、はち切れた。そして、思いの中心にあるなにかを追い求めた。気が付くと、12月13日の今朝T社泉南出張所の作業場にいる、と言う感じがしてならなかった。
しかし、運命の糸がめまぐるしく回転し始めていることをその日の私は知るよしもなかった。泉南出張所での仕事は明日で終わるのである。

回想の巻き・転職編その3

泉南出張所は古い民家が密集する中にあった。
「岡村さん、早速ですが集金をお願いしたいのです」。所長の大畑さんから事務所に着いてすぐに、そんな依頼があった。
1ケ月分の請求書を月末に発行して、翌月中に配送員が回収する仕組みになっている。しかし、請求金額の全てが翌月に回収されることは稀である。配送員が集金に訪れる昼間、留守をしている家庭が結構あるからだ。そんな場合には夜集金に行かねばならない。こまめに動く配送員は1~2ケ月遅れても必ず回収してくるのだが、皆が完璧な仕事をするわけでなく、退職した配送員が残した未回収残などがたまってしまっている。T社は12月決算である。それらの遅延金は年度末までに回収せねばならない。
所長は1件でも多く未回収金をなくさねばならないが、年末は通常の食材意外におせち料理や正月用の様々な商品を販売しており、それらも含めて全てを年内に集金せねばならない。通常月の二倍以上の仕事量なのだ。猫の手も借りたいとはこの時期を形容する言葉としてぴたりと符号する。
特に日頃集金をかまける配送員に所長は口酸っぱく集金するように言わねばならない。

八百屋の頃には、売掛金の回収など殆ど経験したことがない私は所長から未回収の請求書と住所が書かれた書類と住宅地図が渡された。
最近のものに交じって数か月も前の請求書も含まれている。
A3程の分厚い冊子の住宅地図は使い古されており一軒毎に住民の名前が詳細に記載されている。
捲ってみると、赤鉛筆でしるしが入っていたり、金額の走り書きがあったり、配送員達の手垢で一杯である。
「岡村さん、どのように集金するかはお任せします。お昼には一度事務所に帰ってきてください。よろしくお願いします」と言われた。
地域一体の大きな地図で事務所の位置に印を付け、一枚ずつ請求書に記載された町名に大まかな印を付けていくと、回らねばならない全体像が鳥瞰出来た。
事務所を中心に北の方向に該当する集金先を辿りながらもっとも遠い顧客に一旦出て、そこから東、南、西と内側に円を描きながら順に集金する道を今日は辿ることにした。
先ずは集金エリア全体の概要を理解するためである。勿論、道すがら集金をしながらである。
貸してもらった軽の配送保冷車で9時過ぎには出発した。
車は乗りなれた軽トラックで、運転には自信があった。地図を頼りに慣れた手つきでハンドルを握り、アクセルを噴かした。八百屋時代と違うのは、荷台に保冷庫が搭載されているので、後方が全く見えないことと、「夕食材料宅配」と目立つようにペイントされている点だ。
少し気恥ずかしい感じがなかったわけではないが、そんな感覚も直ぐに消えていった。
集金出来た顧客は意外に少なく留守宅が殆どであった。
その場合には、集金に来たが留守だったので又来るが、振り込んでもらえればありがたい、というメモを入れながら、計画したルートを順に辿り、正午を少し過ぎて事務所に戻った。
渡された30程の請求書の内、4~5件集金出来ていたので、伝票とお金を計算して、事務員に渡す。
「ご苦労様でした」という事務員の笑顔にちょっと嬉しさは感じたが、満足感などは全くない。寧ろ、早く全部をきれいにしたいという気持ちが強く、中途半端な感じが気持ちを覆っている。しかし、それは口には出さなかった。

「食事に行きましょう」と所長に誘われて駅前の食堂にいった。
「午前中の3時間程で、あれだけ集金してくるなんて凄いですね」「ありがとうございます。しかし、これからです。必ず全部きれいになるようにしますよ」「まだ、年末まで2週間はありますから、焦らずにやって下さい」「ところで、私は集金だけお手伝いすればいいのですか。地区本部からは所長の指示に従って欲しいと言われました。それにいつまで手伝うのかも聞かされていません」「そうですか、時期については私に何らかの連絡が入ると思いますが、年内一杯はこちらに来てもらうようになると思います。岡村さんさえ良ければ配送の仕事も経験された方が良いと思いますので、少し配送のコースを持ってもらうことにします」「なんでもやりますので言ってください」「でも、大阪の北部からこちらまで出勤時間が大変ですよね。さっき乗っていた車で通勤してください。それにしても2時間位かかってしまいますよね。大丈夫ですか?」「朝早いのは平気です。八百屋をしていましたから」「そうですか、安心しました。では、今日は午後からも集金の仕事をしてください。明日からは徐々に配達もやってもらいます」。
大畑所長は私よりも一歳年下であることを話の中で知ったが、私にとっては上司であったし、信頼できる人柄であることを直観で認識もしていた。この人の言うことならば間違いはないだろうし、何より仕事に向かう姿勢は几帳面であり真面目である。それに温かな人間性を感じるのである。
しかし、7年後には立場が逆転して彼を地区本部の重要な仕事の責任者として私の後任に指名することになるとは、その時はおよびもつかなかった。

食事を終え、事務所に戻って、早速地図を広げながら集金の仕方を考えた。
留守だった家の玄関回りの雰囲気、例えば洗濯物の有無や子ども用の自転車やおもちゃの有り無し等のメモを見ながら、夕方には在宅していると思われる顧客と夜でなければ会えない顧客、判断が付きにくい顧客と3通りに色分けした。
夜訪問するところを除いて、午後の集金ルートを決め、出発した。
つい先ほど訪れているので、家や周辺の雰囲気は記憶に新しい。未だ不在の顧客であっても、真っ先にするのは、入れたメモの様子を確かめることだ。無くなっている家は一度帰宅しているということなので、昼食時は家に帰っているのかも知れない。それらの些細な情報はメモしておく。洗濯物が取り込まれているかどうかも大切な情報である。朝あった洗濯物がないということは帰宅したということである。また、玄関回りの様子から、きちんとした性格の人なのか、そうでないのか等、観た感じをこまめにメモしていく。
ルートを回り終えて事務所近くに戻って時計をみると既に夕方5時前であった。一旦戻ろうか考えたが、夕方には在宅していると検討をつけた先を訪ねようと決めた。
公衆電話から所長に電話すると「いいんですか、初日からそんなにしてもらって。疲れていませんか。今日は切り上げてもいいんですよ」と気遣いの言葉が返ってきたが、「折角ですから、もう一度回ってきます。事務所には何時までおられますか?」「8時や9時まではいますよ」「分かりました。では、あと2時間程で帰りますので」と電話を切って、目ぼしを付けている顧客の家に向かった。
土地勘は既にかなりついているので、迷うことなく目的地に行けるようになっていた。

その日はほぼ半分の顧客から回収できた。大凡、5~6万円の成果である。
残りの顧客は夜に回るしか手はない。所長と話し合って、夜の集金日を明後日に決めた。
「いやー、今まで何人かの営業が手伝いに来てくれましたが、一日でこれだけ集金した人はいませんでした。ありがとうございました。岡村さんなら直ぐに所長にされると思いますよ。なにせ出張所はどんどん出来るのですが、所長候補がいなくて、地区本部は困っているくらいですから」「どの出張所も営業が派遣されるのですか?」「いえ、そんなことはありません。出張所によりますが、私のところは配送員の入れ替わりが結構激しくて、売掛金の管理が私一人では手が回らなくなってしまっているものですから、センター長に営業応援の要請をしていたのです。岡村さんに今日お願いしたものの他にも結構未回収金が残っているんですよ。もっとも今年中には何とかするつもりです。今日はお疲れでしょうから帰宅してください」「所長はどうされるのですか?」「私は今日の日報を仕上げて、集金に行きますよ。帰宅のついでに10件程回ってきます」

夜8時になっていた。疲れはない。寧ろ、仕事をしているという充実感がある。帰宅するよりもまだ仕事をしたい気持ちが強かったが、今日は帰ることにした。
国道で北に向かって走るのだが、果たして家までどのくらい時間がかかるのだろうか。それは明日出社するためには必要な情報になる。
出張所の前の道を一直線に国道に出ると、今日何度か目にしたファミリーレストランの大きな看板が見えた。それは事務所に入る横道の目印になっている。もう一軒だけ、集金してから帰ろうと思った。黒いビニール製の手提げの集金バックには残っている集金伝票が入っている。

回想の巻;転職編その2

食材第一部の営業として、私は採用されたはずだった。
顧客は一般企業の社員食堂や社員寮で、献立表とともに使用する食材を人数単位で届ける訳だから、企業側からすれば、材料費のロスはない。
しかし、大きな企業(利用する社員数が多い)はそれら食堂運営を給食会社に委託することが一般的である。それらを今日ではケータリングサービスと言う。
給食委託会社は派遣する調理等のスタッフの人件費や食材の費用一切を含めた金額で契約しているため、利益の大半は食材の調達力に左右される。原材料費管理をきめ細かく行えるかどうかが直接、利益につながるからだ。
当然のことながら自社独自で食材を調達することになる。
従って、第一部業務用の営業マンは、大企業やそれらの委託給食会社に向けて活動することは極めて稀であった。
では顧客ターゲットはどこか。
社員寮や食堂管理を自社の社員に委ねている小規模の会社ということに自然になる。会社規模が小さいということは利用する社員数は少なく、委託給食会社も触手を伸ばそうとしない。
食材第一部の営業は社会の隙間(ニッチ)にある顧客を狙う事業部と言える。
そこでこぞって営業マンが出かけたのは、当時、波にのって怒涛の勢いで大ブームの最中にあった「パチンコ店」である。
パチンコ店の殆どの店舗には社員寮が併設されており、従業員(十数名)の食事は会社が雇い入れた賄婦たちに委ねられる。
パチンコ店にとっては、献立表付食材を決まった価格で供給される訳だから、経費管理が容易だし、賄婦による金銭事故の防止にもなり一石二鳥なのだ。

朝礼が9時前に終わってから、一人机に座って待っているのだが、一向に上司からの指示はない。この会社で私が唯一知っている人は面接で話をした総務課係長のT氏である。そのT氏は「ちょっと待って下さいね」と時折声をかけてくれるのだが。
10時を少し回った頃に、例の上司と思しき男性がワイシャツを腕まくりして階段を駆け上がってきて、「すみません。お待たせしてしました」。
私の前に座り、「一階で作業をしていたものですから」「営業の方も朝の作業をされるのですか」「ええ、そうなんですよ。配送員が出かけるまでが結構忙しいもので。お待たせして失礼しました」。道理で営業マンがいないはずであった。
「私はこれからどうすればいいのでしょうか」「すみません。もう少しこちらでお待ち願えませんか。直ぐに戻ってきますので」「はい、それは構いませんが・・。あの営業マニュアルのようなものがあれば拝見したのですが」「はい、それもまとめて後ほどお話します」と言うと、忙しげに事務所を出ていった。
余程、朝は忙しいのだ。そういえば陳列ケースに野菜や果物を並べたり、売値を付けたりと朝は戦争であった。「わかる、わかる」と、今度はどこまでも待つ腹を決めた。

待つこと1時間、11時頃に漸く例のオジサンがまたやってきた。
すみませんでした、と声をかけて、「こちらの方に来てください」と私を応接室に手招きした。
部屋に入ると、T係長が既に座っており、二人が座る前に慎重に腰をかけた。
「大変お待たせしました」とオジサンが言い、続いてT係長が「岡村さん、実はご存じの通り私どもの食材第2部は拠点網をどんどん拡大していまして」「ええ、よく存じています」
「ありがとうございます。それで、実は大変申し上げ難いんのですが、暫く2部の拠点に応援に行って欲しいのです。1部の営業で募集していながら、大変申し訳ないのですが、如何でしょうか」「はい、そういうことなら、私は全く構いませんよ」。T社を理解するためには、2部の仕事も経験しておいた方が良さそうだし、T社は家庭用献立表付食材宅配で急成長してきた会社なのだ。いわば本流の仕事を経験しておくことは、寧ろ好都合かも知れない。
「ありがとうございます。そういって頂ければ助かりました」「で、どこに行けばいいのですか」「大阪南部に泉南出張所というのがあります。ここは泉北センターに所属しています。場所は・・・」。一通り説明を聞き、「承知しました」「それで、いつから行けばいいのでしょうか」「早速、今から出かけて頂けませんか」。
T社関西地区は、大阪府・大阪市内を担当エリアとする「淀川センター」、兵庫県は「西宮センター」、京都府滋賀県を担当エリアとする「淀センター」の3つのセンターで確か構成されており、それぞれにセンター長がいて統括している。

そういえば、朝礼の後、地区長と呼ばれる関西地区のトップと思しき、太った東北なまりのサザエさんのお父さんと同じ頭をした人の机で、小柄で誠実そうなT係長と七三頭の上司とが、なにやらひそひそと話をしていたことを思い出した。
恐らく私のことを話し合っていたのだ。
T社の創業は、実は江戸時代元禄の頃に遡る。千葉県の醤油製造が本流の会社である。
時代が流れ、昭和の世になって現在のO社長の下で、A専務を中心に献立表付食材ビジネスで成長したのである。始まりは醤油部の顧客繋がりで業務用からスタートしたが、一般家庭に顧客を向けた途端、時流に乗り急成長したのだ。
従って、2部では猫の手も借りたいという状況だったのだ。

行き方を書いたメモを手に、私は泉南出張所に向かった。
そして、結局、私は1部の営業には戻らなかった。
この日から、これほど仕事が面白いものか、「早く朝になれ」と思う日々を過ごすのである。

回想の巻・転職編その1

昭和52年(1977年)12月に私は八百屋を廃業して、T社に就職した。
27歳の時である。
T社は献立表付食材を一般家庭に宅配するビジネスを世に出現させ、今日の宅配サービスビジネスの礎を築いたパイオニアであった。また、無店舗販売という一つのスタイルを確立させた時代の寵児であったと言える。

1973年オイルショックによる狂乱物価で国内経済は大混乱をきたし、総需要抑制政策によって、翌年、実質経済成長は初めてマイナスに転じ、ここに高度経済成長は終焉する。
それまでの産めよ、増やせよという浮かれ気分から、地味に、しかし安定した社会を形成しようという気運が高まりつつあった。日本社会は低成長の時代に突入していくのである。
そしてこの時代はまた、起業家達の時代でもあった。様々なアイデアをビジネスに繋げて事業を起こす者、米国等からビジネスモデルを取り入れて成功する者たちが西に東に出現したのである。
T社も間違いなく、その1社であった。事実、倍々ゲームの如き圧倒的成長をし続けており、猛烈なスピードで全国津々浦々に営業拠点を拡大していった。まさにドミノ倒しを見るが如くであった。そんなT社の関西支社に営業社員として私は飛び込んでいったのである。

このような新興会社にありがちな特徴は、組織が確立しておらず、朝決めたルールや規範は夕には変更され、それにも順応して、ひたすら仕事に専念し、自ら障害を切り開こうとする社員が重宝がられる。また、プロパー社員は当然存在せず(新卒採用をはじめようとしてはいたが)、全国から色々な人種の人間が集まって、各地域で組織を形成していた。
当時の関西支社には、まともだと思える管理者もいたが、いい加減な仕事でお茶を濁す管理者も確かにいた。社員も変わった人間が大勢いたが、自主独立の猛者(もさ)もほんの一握りだがいた。
その年の年末に営業社員として採用されたのは私一人だけであった。(と、思っていたが、毎日のように採用面接があり、採用されれば、希望日から出社するという状態だったので、厳密に言えば、その日初出社したのは私一人だけであったということだ。)

私は望んで会社という組織に身を置くことに決めた。大学卒業後、不動産ディベロッパーに就職したものの2年で会社は倒産し、先輩と始めた「八百屋」では色々なことを経験したが、一通りのことを理解し、身につけてしまうと、飽き足らず、もっと大きな舞台で仕事がしたいという思いが膨らみ、ついには先輩と話し合って廃業した。(以前のブログ「青春八百屋物語」参照)
そんな経緯があったので、T社に採用されたときは、会社という組織に入って活躍する自分の姿を思い描き、ときめきながら出社したことを昨日のことのように覚えている。

さて、初出社当日。8時半始業だが、7時には出社した。早く仕事に行くのは八百屋の常識で私には当たり前の行為である。
一階の広い作業場では、配送員達が口から白い息を吐きながら、配達する食材を選り分け保冷車に積み込む作業に没頭している。
「やってる、やってる」とにんまりして、「おはようございます。新しく入社した岡村です。どうぞよろしくお願いします!」。
作業場の入り口に立って、大きな声で私は挨拶をした。
しかし、作業場の時間が一瞬だけ凍り付いたように止まってしまった。慌ただしく無口で作業をする集団の前に、全く異質な何者かが突如として現われて大声を出したものだから、なにが起きたのかを理解するために時が必要だったのだろう。
一呼吸間をおいて、オジサン達はそれぞれがそれぞれのスタイルで頭をぺこりと下げた。さすがに声はない。そして何もなかったようにまた、食材を袋にいれたり、伝票をチェックしたりと作業に戻った。
ビックリさせてしまったかなと思ったが、あまり気にせず、ひたすら「やるぞー!」という気を発散させながら、二階の事務所への板敷の階段を上がっていった。
ドアの前に立ち、深呼吸をしてネクタイを直し。そしてスチール製のドアのノブを勢いよく握って回した。ドア全体がちょっと軋んだ。しかし、開かないのである。事務所のドアの真後ろにも同じようなドアがあり、そちらのノブも回してみたが鍵がかかったままである。
「まだ、誰も出社していないのか」、ちょっと出鼻を挫かれた感じがしなかった訳ではないが、階段を下りてもう一度、作業場に戻り、「あのー、二階には誰もいないのですが・・・。」と作業する人の背中に向かって話しかけた。
すると、作業場の奥からT社のマークが入ったジャンパーを着た男性が歩み寄ってきて、「営業で採用された方ですね。まだ、事務所は開きませんよ、そうですね、あと30分程したら、誰か来ると思いますよ。暫く待って下さい」と丁寧に話をしてくれる。
後で分かったことだが、この人はT社家庭宅配部門、淀川出張所の所長であった。年恰好は私とほぼ同年齢くらいであろうか。
私は仕方なく、駐車場や1階にある淀川出張所の事務所を窓越しに眺めたり、地下1階にある作業場を見学したりして時間を潰した。
地下一階といっても実はここが1階である。淀川の堤防の傾斜に沿って立っている建物だから、三階建てなのだ。さっきの作業場は2階部分にあたる。
1階の作業場でも、多くの人たちが食材の仕訳作業をしていた。
こちらは、食材第一部つまり、業務用の宅配部隊である。
私は確か、この食材第一部の営業として採用されたはずであった。確か?。
待つことしばし、漸く3階の事務所に人が出社してきて、私は無事事務所に入ることが出来た。それ以降、続々と人がタイムカードを押して、「おはようございます」と言って入ってくる。私は丁度入口付近の机に座って待っていたので、来る人来る人に「おはようございます」を連発せねばならなかった。
そして、いよいよ8時半。朝礼が始まった。大凡、20人ほどがワンフロアー全体に広がって輪を作り、その中心に見事なほどサザエさんのお父さんと同じ頭をした太った人が最初に挨拶をして、順に各部門(食材1部・食材2部・醤油部・総務課・1部営業部隊)の代表者が今日の予定等の挨拶をする。
さっき親切に話をしてくれた淀川出張所の所長も朝礼に参加している。しかし、作業員達(配送員)は参加していない。
挨拶が一巡すると、総務の課長が私を紹介してくれた。
何を話したかは全く覚えていないが、元気バリバリの若いやつが飛び込んできた、という印象を持ってもらったようである。(後から、そんな感想を聞いたので)
朝礼が終わると、それぞれが自分の持ち場に去っていったが、私は机に座って、誰かのアクションを待つしかなかった。
静かになった支社の3階の営業デスク(6人が向かい合って座る細長いスチール製の机)に一人座って待っていると、男の人がやってきて「ちょっと待っていて下さい」と一声かけただけでどこかに行ってしまった。髪をオイルで七三に分けた、ごっつい感じの中年の人であった。この人が上司か・・・。で、しかたなく会社の営業案内や献立表などをパラパラめくり時間をつぶした。
3階の事務所は、第1部(業務用)第2部(家庭用)ほかに醤油部のデスクが所狭しとばかりに配置されており、中央には関西地区長のデスク、それを取り巻くように経理や総務のデスクがあり、皆忙しそうに仕事をしている。私の存在は彼らの意識の外なのだろう。
さっきの上司と思しき人に営業のマニュアルをくれといっても「ちょっと待って下さい」というばかりで、一向に何の説明もなかった。
時間は悪戯に流れていくばかりであった。私の「気」はしかし、この程度で削がれはしない。唇を真一文字にギュッと引き締めて、眉間に真剣皺を作って、ひたすら会社案内やら、献立表を読み込んでいた。
この後、身に降りかかるビックリ仰天の事態が待ち受けているとも知らず。
(続きは次回)

心拍数が異常に上がる!

私の仕事部屋は西に面している。
夏の間は、夕方になると室温が異常に上がる。西日が直接あたるからだ。
しかし、冬季は逆に暖かいかというと、そうではない。
今朝などは眠気まなこで部屋に入ると、ブルッと身震いがした。
という訳で、早速ストーブを持ち出す。ちょっと早い気もするが、鼻水が出てくるものだから仕方ない。

今年も既に残すところ二月。
二十四節季のはやくも十八節季「霜降(そうこう)」である。
「霜降」は秋も終盤で、露に代わって霜が降りる季節という意味だが、季節が進んできたのだ。
春は「山笑う」、夏は「山滴る」、冬は「山眠る」、そして秋は「山粧(よそお)う」。
紅葉のシーズンでもある。
そんな日本の秋を無粋な台風が引っ切り無しにやってきて列島を水浸しにして去っていった。十月にこんなにやってくるのは記録的だそうだが、南の方の海水温が非常に高いことが原因らしい。
異常に海水温が上がったのとは事情は異なるが、一昨日の日曜日、私の心拍数が異常に上がってしまった。
今年に入って、ボイストレーニングに通いイタリア歌曲に挑戦していることはブログで既にお話させて頂いたが、こともあろうに人前で披露することになったからである。

月に二度1時間のレッスンに通っているが、イタリア歌曲の課題に挑戦し始めてまだ3ケ月。人様の前でそれを披露するのは、味付けが終わっていない未完成の料理を食べさせるようなもので無謀以外のなにものでもない。
聴く人の神経を侵し、健康に害を及ぼす危険な行為で、一歩間違えれば犯罪になりかねない。
しかし、私ときたらそんな状況を客観視できる精神状態ではなく、自分のことだけで一杯いっぱい。 

レッスンでは、発声練習をたっぷり30分費やし、それから課題曲に入るのがルーティンだが、それもなく、歌える状態ではない。
それでも容赦なく時間が経過して、いよいよ本番。
4小節の前奏が始まる。
お腹に死ぬほど息を入れて準備をする。
「Ca‐ro mio ben・・・」と歌い始める。勿論、人様の顔なんてまともにみることが出来ない。頭は真っ白・・・・・・・・、そして気付いた時には終わっていた。
少し微妙な間が空き、拍手。本物かお義理か、自分の姿が観えていないので、全く空気が読めない。
終わったことだけは確か。
後日、ビデオを頂けるが、まともに観るにも勇気がいる。
結果、霜が降りるのか、それとも晴天の秋空か、後日報告させて頂く。

さて、明日はレッスンである。「Ombra mai fu(Largo)」が今の課題曲だ。
ユーチューブで予習でもするか・・・・・。
ハー・・・・・。

秋!

秋の朝である。
昨日まで大阪は真夏日が続いていた。10月でも真夏とは、いやはや。
しかし、今日はまだ夏日だ。真夏日と夏日の違いって何?
真夏日は最高気温が30度以上35度未満、夏日は最高25度以上30度未満。(ちなみに猛暑日は最高気温35度以上、熱帯夜は最低気温が25度以下に下がらない夜。どちらでもいいか)
子どもの頃、秋と言えば運動会であった。いつから秋でなくなったのだろうか。詳しい訳は分からないが、運動会は絶対に秋であるべきだ。運動の秋なのだ。
運動会から連想するものと言えば、母が体操着に縫い付けてくれた白い布に滲んだマジック字で大きく書いた名前、ゴザの上で食べる卵焼きと竹輪の甘煮と赤いウインナー、入場門の手前で整列した時の緊張感・・・・・。
栗・青いミカン・トウモロコシ醤油焼き、当時は普通の食べ物であまり好きでなかった松茸、思いだせば尽きることはない。
だから、絶対に運動会は秋なのだ。
それにしても、「秋」という季節でも、夏日という言い方はちょっと無粋な気がしないでもない。
10月に入って25度以上の意を「秋日」とか「運動会日」とかにすれば?
そうか「秋日(しゅうじつ)」は秋の季節そのものを言い表す言葉として既に存在するから、『秋汗日』とかにした方がいいかな。どうです皆さん。

ところで柳葉魚(シシャモ)の旬はこの季節なんだとか。
このシシャモ、先日の新聞にどこかの大学で(たぶん北海道の大学かと)初めて養殖に成功したとかの記事が載っていたっけ。
シシャモは北海道の太平洋岸にのみ生息する特殊な魚で、大阪辺りの居酒屋で400円位で食べられるのは、シシャモもどき。カラフトシシャモなんだそうで、全く別もの。

ちょっとダラダラと書いてしまった。

今日は甲子園に行ってくる。あきもせず、行くか?という感じだが、広島の前健を崩せるかどうか。なんせ、我が阪神タイガースはクライマックスファーストステージ全て敗退している。友人がチケットを譲ってくれたので、青空・甲子園・生ビール・六甲おろしで秋を堪能してくるか。
飽きさせるなよ、阪神よ!

お久しぶりです。今日は「ジッ様天国」抄

9月はまるっと1ケ月夏休みして既に10月も十日余り過ぎて季節は既に秋。うん?秋。本当に秋?昨日などは30度を超え短パンにTシャツでうろうろしておりましたが・・。
暦の上で10月8日は二十四節季「寒露(かんろ)」。朝晩の冷え込みが増し草木に宿る露が冷たく感じられる時季とありますが、まだまだ夏は続く今日この頃であります。

ブログは休んでも例のスポーツジムには足繁く時間を見つけては通っておりました。
このジムにはですね、記録カードなるものがありまして、その日の体重や血圧・脈拍数等々を記録致します。それを先日眺めておりますと「よくもまー飽きもせず通うものだ」と少々驚くのでありますが、記録をみておりますと色々と気付くのであります。
ひと月に多くて12日、少なくとも10日ここで汗を流していますので、3日に1日のペースで来ていること。
スタートの時の体重は84kgで今朝は73kg。9ケ月で11kgダウンしたということ。(過去の最高体重は88kg~89kg)
毎日体重を量っておりますとね、体重は大凡1kgから1.5kgの幅で上がったり下がったりしながら、不摂生すると緩やかに上昇し、運動していると更に緩やかに下降していくということなんぞが分かったりします。

ジムに行きますと先ず、自転車のペダル漕ぎを60分位やるんですが、殆どの人は走ったり歩いたりしていますね。私はしんどいのが嫌で座ってペダルを漕いでいるほうがいいんです。60分もよくやるね、と言われたりしますがね、案外そうでもないんですよ。ウオークマンで殆ど音楽を聴いているんで結構私には合っていますし、それでも大量の汗が出てTシャツはビショビショ、着替えねば気持ちが悪いくらいなんでございます。
でね、着替えてからはマシンというやつですよ。マシンは鍛える部位によってそれぞれ特徴がありましてね、胸・背中・腕・足・腕・脇腹等々。これもえらいもので標準の重さに慣れて、今では結構の重さをひっぱたり広げたり出来るようになるんでございますよ。
9台のマシンをそれでも極端にしんどいのは嫌ですから、15分位で終わりますね。
それから忘れてはいけませんね。ジムに通う目的はインナーマッスルを鍛える目的ですからストレッチを15分ですね、致しますです。
全てを順調にこなして90分ジムにいて、待ちに待った唯一の楽しみのお風呂タイムですわ。
先ず水を全身に浴びますが、必ずブルッとサブいぼ(関東では鳥肌と言いますが、サブいぼが正しい言い方)が立ち、大急ぎでサウナに突入しますです。用意した氷水をガブッと飲んで15分。まーよくもこんなに汗が出るものかという程、汗がでますね。人間の身体は水分で出来ているというのは嘘じゃありませんな。
サウナから出て先ずすることは水を浴びてそれから水風呂に入り、身体を洗って又サウナ・
水風呂・ジャグジー・水風呂と繰り返すのであります。

さて、このサウナの中。ジッ様達の天国ですな。友人が「ジムは年寄ばっかりなんやと聞いていく気がしない」と言ったのを思い出しましたが、(君も年寄だろうが!)ほんまにそうですわ。で、このジッ様ときたらまーとんでもありませんな。
その何というか、両足を広げて例の汚いものを惜しげもなくさらけ出して柔軟体操をしていたり、大声で「阪神は広島によー勝たんで」とか「イチローはもう日本に帰ったんか」とか。「あの人は最近見かけないけど癌やてなー、そういえば青い顔して心配してたんや(ほんまは心配なんかしてないくせに)」とかとか。それはそれはかまびすしい。
ですから、サウナの15分は飽きることはないのですが。

ジムには夕方行くことにしており、ジッ様達もこの時間帯に集まっていることになるのですが、この風景確か記憶にあるんですな。
そーです、風呂帰りの夕涼みに近所の年寄が集まって将棋をしたり世間話したり、昭和30年頃の風景ですね、それとどこか少しだけ似ているんですね。
昔は家に風呂などなかったので銭湯に行くんですが、家のせせこましい湯船に身体を折り曲げてじっと入るよりも、そりゃーあなた広ろーい湯船の方が疲れも取れるというもので。
場所こそ、軒先の床几でなくサウナの木椅子に変わっているだけで、本質は全く同じでありますね。
そーいえば、確かにジムでは見かけない顔のジッ様も沢山見かけますね。1ケ月の会費を30日で割れば200円程ですから、銭湯に行くよりも安いし、広々として設備も充実していますからな。ジムに行かなくても十分に値打ちがあるわけですね、はい。

七十二候で言うと今日は「寒露」の初候『鴻雁来(がんきたる)10月8日~12日頃』。
燕が南へ去り、冬鳥の雁が飛来する。その年初めて渡ってくる雁を「初雁(はつかり)」、雁の鳴き声を「雁が音(かりがね)」というそうですが、元気なジッ様達が飛び立つのは、どうやらまだまだ先のことなのであります。
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