こんにちは、お久しぶりです。
この1年くらいで自分の中で「変わったなあ」というできごとがありまして、少しでも教養を深めるべくいろんな本に出会う努力をするようになりました。
というのも、こんな理由を言うと「何をいまさら」と思う方もいるかもしれませんが、高校生を終えるぐらいまでは「読書?なにそれ」ぐらいにしか思えていなかったのが、大学入学後に課題図書だとか参考図書という形でさまざまな本に触れるようになって、こう思ったんです。「本を読んでも楽しめなかったのは自分の中で勝手に読破しなければいけないという高いハードルを持っていたがゆえに読めなかったんだ」と。
確かに本というのは著者自身の考えが言語化されたものを隅から隅まで記述してあるもので、最後まで読めば読者の思いは伝わるかもしれない、けれど読む側としての目的はそれ以外にもあって、必ずしもそれだけではないんだなということに気づけて(もちろん読破することが最終目標ではあるが)、少し肩の荷が下りたなと感じたことがきっかけです。そのおかげで今では興味を持ったいろんな文庫本に着手して読めるところは読めるようにしています。
さて、前置きが長くなってしまいましたがタイトルにもある通り、今回は「勉強」についてです。
少し前にたまたま用事があって立ち寄った本屋で、東大で数学の教鞭をとっていらっしゃる西成先生という方の本が出ていました。(ページはこちら→
この本の一節で、僕は本当の意味で「勉強」という単語を知ることになります。
その一節とは、相対性理論で有名なアインシュタインがとあるインタビュアーに聞かれた質問に対して、こう答えています。
「私が偉大なのではない。私がこうやって実績を残せるように知識や知恵を残していってくれた昔の人たちがすごいんだ。私はただその巨人たちの肩に乗っているだけだ」と。ちなみに最後のこの一文は英語でもフレーズとして残されており、「Stand on the shoulder of the giant」というそうです。
相対性理論でさえもすごい理論なのに、こう言葉を残してしまうアインシュタインもすごいなと僕は思うのですが、巨人が残してくれた知識があるからこそ相対性理論を確立できたと述べています。
この一節を受けて、僕は親であったり目上の人が「勉強しなさい!」という理由がわかったような気がするんです。勉強というのはいわばショートカットで、わざわざ昔の偉人が発明してくれたものをないがしろにしてまで、最初からやり直さなくとも知識を使えと暗に意味しているのがそれなんだということなんです。勉強という単語そのもののルーツからいうと「気の進まないことを無理やりやる」ということらしく、もとはあまりいい意味ではないんですが、要するに偉人の恩恵を受けられる最高の方法が「勉強」であるということなんです。
個人的には、勉強という言葉は主観的要素が強い言葉なのかなという気がしていますし、勉強が嫌だなと思う人の気持ちもわかるのですが、そうした最高の方法と称するに値するようなものをそういう意味の言葉で受けてしまうというのも少し失礼なのかななんて気もします。けれどそれはきっとその当時の人たちも同じように考えていたことでしょう。