今日は三国志11
前回…だいぶまえですが、説明しましたように、194年は群雄割拠の時代。
まだ突出した勢力はありません。
基本的には正史にならって、江東へと進出することになるでしょう。
とりあえず北の袁術とは良好な関係ですし、東は劉表(親の仇で敵対関係)がいますので。
さすがに寡兵で江東平定は無理。
で、さっそく魯粛登場
彼は周瑜亡き後、孫呉の軍略を司ることになりますが、その方針は周瑜とはまるで違うものとなります。
そもそも、彼と周瑜は立場からして異なり、周瑜は漢の名臣の末裔、魯粛は豪商であり、経済的立場は置いておいて、名声という点周瑜にはるかに及びませんでした。
彼の名声を高めたのは周瑜その人でした。
ある時、軍費に困った周瑜が魯粛の噂を聞き訊ねると、彼は倉を指差し、あの中にあるものを全て差し上げましょうと言ったのです。
これにより周瑜は魯粛という人物が並の才能ではないと感じ、高く評価しました。それにより、魯粛の名は”あの周瑜が評価した人物”ということで、世に知れ渡ることになるのです。
(もちろん周瑜だけでなく、さまざまな名士との付き合いもありました。そのお金が莫大となったので、ごくつぶしと故郷では言われていました)
ちなみに当時出世するためには、名士に名を知られることが必須だったのです。
名声がないと人が集まらないのですね。
孫堅や孫策ほどの者が、袁術の配下にいたのを不思議に思う方もいられるかもしれませんが、当時の孫家はよくある将軍職にすぎず、その名声はそれほど高くないのでした。
それが孫堅・孫策の死と江東の四姓との確執とも繋がっていくのです。
さて、魯粛と周瑜の話はまた次回に。
彼が参戦してくれたおかげで、軍師が2人となり、軍を二手に分けることができるようになりました。
でもまだ人材採集は続きます。
