さて、献策もまったく取り合ってもらえず凹み気味な張郃ですが、ここで悪い意味で予期せぬ事態が。



はやっ! 死ぬの早いよ劉表。

これにより、荊州は一時混乱状態に。

ああ、曹操包囲網の一角がこんなにも早く崩れるとは・・・。



いや、今ならまだ曹操も兵力を河北に避けないはず。

そう思い出陣を提案するも、衝撃の兵糧0!

おま、攻められたら終わるじゃないか。

この後、田豊が兵糧を購入して何とか難を逃れます。



それでも真面目に内政を行ったおかげで衝車が使えるように。

攻城が楽になるはず。

だから早く攻めるんだ・・・ああ、また取り合ってもらえない。



さらに遼東まで征服することで、北方の騎馬民族の協力を得ることもできました。

確かに史実でも、袁紹は烏丸などと同盟を結んでいたようです。

だから、はや(ry



我が袁紹軍の軍師、郭図。

彼の作戦失敗により、張郃は曹操への投降を余儀なくされます。

この辺りにも袁紹軍のちぐはぐさが浮き彫りになっています。


そもそも袁紹は何故、河北を本拠地にしようと考えたのか。

彼は河南の出身であり、朝歌に近い場所を本拠地としてもよかったのです。

事実、彼の異母兄弟である袁術は、荊州北部の南陽を本拠地としています。

もしかしたら、袁術に対抗するためだったのかもしれません。


河北の袁紹、南陽の袁術。2人の拠る土地は異なっても、その根底にあるのは同じ。

漢王朝中興の祖、光武帝にあやかったと考えられるのです。


南陽は光武帝の出身地であり、河北で割拠し、後に河南に侵攻し、天下を平らげるとは光武帝の基本戦略です。

つまり、袁紹にとって河北平定はあくまで中央進出への足がかりだったと考えられるのです。

元々中央出身の郭図などはこれに賛同したわけです。


これに対して、田豊らは河北出身の地方豪族なのです。

彼らにとっては、中央よりも河北の平定がまず第一だったというところがあったと考えられます。

これについては、蜀や呉でも似た問題が発生していることも考慮しておきたいですね。