二張 劉備に仕え 魏延 劉岱を裏切る




州牧になったのも束の間、すぐに羽林中郎将に任じられました。


羽林というのは近衛兵のこと。中郎将ってのは、簡単に言うと中将ってとこですかね。


つまり、近衛兵を率いる地位に劉備は就任したということです。


なんか、とんとん拍子に出世するね。



さて、徐州では、張昭



張絋が配下に加わりました。


孫策に請われて呉の重臣となった2人ですが、元々は徐州の出身です。


以前紹介した魯粛も徐州出身で、実は徐州は人材の宝庫なのです。


ところで、魯粛ですが、演義では孔明や関羽にやり込められる人物に描かれていますが、正史ではそんなことはなく、劉備が蜀を攻略した後は、関羽と単独会談に臨み、交戦も辞さないという強硬な姿勢を貫き、ついに荊州東部の割譲に成功します(荊州南部三郡とも言われています)。


まあ、そもそも荊州南郡は演義ですと孔明がうまいこと周瑜から掻っ攫ったように書かれていますが、実は曹仁を撃退した周瑜から貸与を受けていたらしいのです。


その経緯が真実とすれば、返還請求はおかしなものではなかったのです。


話を戻しますが、張昭は陶謙に仕えるように命じられたのを断り、投獄されています。

後に放免され、朝廷に仕えるようになりますが、董卓により混乱状態となって江東へ移り住んだのです。


この2人の知力・政治力はこれからの徐州統治に欠かせません。



さて、徐州の小沛に戦力を集め、劉岱の治める揚州寿春を攻略します。


劉岱配下には魏延がいたのですが、劉備が登用に向かうと簡単に裏切ってくれました。


これで劉岱には劉備軍に対抗できる武将はいません。


徐州攻略後配下にした、蒋欽と陳登、そして先程裏切ったばかりの魏延に兵を与えて攻め滅ぼします。


陳登は父と共に策を練り、呂布を破滅に追い込んだことで有名ですが、彼が活躍するのは、実は用兵なのです。

正史では、孫策軍をわずかな手勢で撃退し、自らも先陣を切って敵に切り込んでいったということです。


演義では触れられない人物の活躍も忘れないで下さいね。