徐州の魯子敬 劉備の軍師となり 関雲長 蒋欽を捕らえる
さて、濮陽の復旧も終わり、また平原と鄴をいう河北の都市を押さえたことで、濮陽への侵攻ルートもかなり限定されてきましたので、徐州を攻めることにします。
幸先の良いことに、魯粛が劉備の新軍師となりました。
彼は徐州の出身で、最初に発見したのは陶謙なのですが、陶謙には仕えず在野にいたのを劉備が直々に登用したのでした。
まあ、実は魯粛に限らず、徐州には名家が多くあり、賢人も多く輩出しているのですが、曹操が徐州で虐殺を行ったため、江東や荊州へと逃げる人が多くいたのです。
諸葛亮もその1人でした。
また、一説によると陶謙は陳圭などの名士を登用する一方、別の名家には圧力を加えたり、有能な武将を取り立てるかとおもいきや、信用の置けないものも重用するという気分しだいで態度がころころ変わる人物だったとのこと。
それに、曹操の家族を皆殺しにしたのも、陶謙の仕業という説もあります。
なんにせよ、実は演義で言われているほどの善人ではなく、天下への野望を持った人物なのでした。
ま、ということで討伐します。
徐州は曹操の陳留をせめて返り討ちに会い、兵力が少なくなっていますからね。
目指すは徐州の小沛。兵が一万弱なので、苦労せずに落城させられるでしょう。
彼は呉の水軍を率いた猛将で、孫権が黄祖と戦った際、相手の船と船を繋いでいる縄を断ち切り、敵軍を大混乱に陥れたという逸話が残っています。
最期は曹操との戦いの中で、沈み行く船に残り、ここを死守するのが主から与えられた使命であると言い残して水中へ没しました。
後々、長江での戦いを考えると心強い配下が出来たといえます。