張益徳 凌操を感服させ 程仲徳 伊機伯を説き伏せる


待望の軍師を手に入れ、周辺諸侯とも引けをとらない陣容になった劉備軍。

まずは内治に力をいれ、外征は控えます。



三国志11では、未発見武将がいる場合、配下武将が推挙してくることがあります。

今回は張飛凌操を推挙してきました。



しかし、簡単には配下になってくれません。

武官であれば、一騎打ちで勝たねばならないのです。


もちろん、張飛が凌操に武において後れるわけがありません。


後の呉の猛将と賞賛される凌統の父、凌操は張飛の武に感心し、劉備の配下になりました。



崔琰は、李孚(リフ)子憲を推挙してきました。

彼は袁紹の三男で、後に後継者を巡り、長子である袁譚と骨肉の争いを繰り広げる袁尚の参謀の1人。

曹操の攻撃を受けた際に袁尚を見失い、やむを得ず袁譚に仕え、袁譚が曹操に滅ぼされると曹操に仕えた文官です。


文官の場合は舌戦で勝つと仕えてくれます。


さらに崔琰は在野にいた国淵(字は子尼袁渙(字は曜卿を登用することに成功します。


正史では、国淵は曹操配下で屯田の事務を担当したとされています。

ゲーム内でも特技に屯田があり、彼がいる港や関は兵糧が減りません。


袁渙は袁術配下の文官で、袁術に対しても正論を吐いたといいます。諫言には良い顔をしない袁術ですが、彼には敬意を表したといいますから、袁渙の声望が高かったことがうかがい知れます。


また、あるとき袁術が呂布に破れ捕虜となり、呂布から劉備を誹謗する文書を書けと脅されますが、袁渙を茂才(郷挙里選制度の1つ。当時は有力者の推薦がないと官吏に就けない。)に推挙したのが劉備であり、その恩もあってか、彼はそれを敢然と拒みます。

※なお本来茂才ではなく、秀才という言い方だったのですが、「秀」は後漢皇帝劉秀の名と同じため、この場合別の言葉を当てることになり、茂才になったのです。

他にも、後に劉備配下となる呉懿は後に司馬炎が晋を建国した際に、高祖宣帝(司馬懿仲達)と同じ名だったため、呉壱と表記されたりしています。


後に曹操が呂布を滅ぼした際に配下となり、屯田制など内政に尽力します。



昱は伊籍(字は機伯を推挙してくれました。

伊籍は劉備が荊州に滞在していた際に親交を深めた文官で、馬氏の五常を推挙したり、また劉備入蜀後は、諸葛亮や法正らと蜀科(蜀の法律)を起草する有能の士。


彼らを得て、さらに富国強兵が進む劉備軍。

しかし、まだ袁紹や韓馥と争うには戦力が不足しています。


いや、どちらか一方のみを相手にするには十分ですが、平原は陸路で南皮と接しており、また水路を使えば撲陽北海からも進軍可能なのです。


まだ劉備軍には、城を守りつつ外征する余裕はありません。


しかしこの時、劉備軍とは関係のない南方での戦いが劉備に天佑をもたらすことになるのでがすが、それは次回。