さて、陳留の支配権は曹操に帰属した模様です。
では、平原やギョウから集めた5万の兵で陳留を攻略しにいきましょう。
陳留は激戦だったので、城兵も1万ほどしかいません。
まさに漁夫の利。
劉備、公孫サン、魏延、高覧で軽く占領です。(劉備はボク陽に戻っていた)
董卓と年数にして半年、両軍合計20万を擁したこの戦い制したのは曹操でしたが、最終的に陳留を支配下に置いたのはどちらでもない我が劉備軍だったのです。
しかし、今度は董卓と陳留の支配権を争うことになりますし、隙あらば曹操が今度は我が軍の立場になる可能性もあるので油断はできません。
その曹操ですが、小ハイを奪われたのはマズイと思ったのか、寿春に兵を集め、小ハイへと軍を進めてきました。
その総数は軽く6万を超えます。
ここに小ハイの支配権を巡り、曹操と我が軍の大規模な野戦に突入するのです。
だがしかしこの小ハイ、東の下ヒからの攻撃は弱い(道が開けているので複数の部隊が活動可能)のに対して、南方からの攻撃には無類の強さを発揮します。
それは、南から攻める場合、道幅が狭く一列縦隊で攻めなければならないからです。
こちらは関羽に1万5000の兵を預け、その左右と後陣に李厳、張コウ、賀斉が率いる弓兵を配置します。
さらに、剣兵1000を二部隊、田豊とソ授に預け、弓兵のさらに後ろから撹乱と火計を仕掛けます。
これで道を塞ぎ、正面からの攻撃は武力も統率も高い関羽に引き受けさせ、左右から弓を射かけ、さらに混乱までさせます。
ただし、これで完全に防げるわけではありません。
敵は多勢ですから、無理をして消耗戦では意味がないのです。
そこで、今の布陣は下ヒからの顔良、文醜らの援軍が到着するまで踏ん張ってもらい、彼らが到着したら、あえて関羽たちを交代させると共に、待機している張飛や袁紹と交代します。
つまり、敵を顔良、文醜、太史慈、朱桓、ホウトク、張飛、袁紹、張飛、袁紹で大包囲陣形を組んでしまうのです。
そして、兵力と気力を回復した関羽らの軍を再出撃させれば、圧倒的多数により敵を包囲殲滅できます。
曹操軍も名将ぞろいですが、戦闘に参加している部隊が一部隊だけでは袋叩きに合うだけです。
さらに曹仁や夏コウ淵らが混乱状態に陥った隙を狙って関羽が一騎打ちに持ち込み、彼らを捕らえることもできました。
これで、2部隊、合計一万が一瞬で消滅するということに。
これで曹操軍は、寿春の兵力の大半を失ってしまいました。
実はこのとき、華北の兵力を増強し、小ハイに集結させておきました。
当然、曹操に態勢を立て直す暇を与えず攻めるためです。
さらに、人材の引き抜きも継続して行っており、董卓軍から皇甫嵩将軍を引き抜きました。
彼に木獣(火を噴く攻城兵器)を預け、まだ兵力十分な顔良や文醜といった下ヒからの援軍を露払いに寿春を攻めに行きます。
来年には、曹操軍を左右に分断できそうです。