ボク陽を手に入れ、ついに中原への足がかりを手に入れた我が軍(劉備)ですが、ボク陽の兵が1万5千しかいないことを好機と見たのか、遠路はるばる孔融軍が攻めてきました。


しかし、北海からボク陽までは、騎馬でも50日ほどかかってしまいます。

こちらはその間に兵を増強すれば良いだけですし、また、孔融軍には太史慈という猛将はいても、軍師がいません。


当然こちらは、敵の進行ルートに待ち構えて撹乱→火計→騎馬で突撃のコンボであっという間に撃退します。


それだけでなく、平原から顔良、文醜、朱霊、審配の4将軍にそれぞれ5千の兵を預け、合計2万の兵で北海に攻め込みます。


こちらは黄河を下っていくので、障害物もなく40日ほどで北海近郊の臨済港にたどり着きます。


その時、孔融軍の主力はボク陽の手前で混乱状態に陥り、身動きが取れていません。

例え身動きが取れていたとしても、北海城に戻るころには、平原からの軍勢が城を囲んでいることでしょう。


太史慈以外に名だたる武将もおらず、兵力にも乏しい北海はたいした抵抗も出来ず落城します。


これで、我が軍の所有する城は4つとなりました。


この北海、都市の規模としては小さいのですが、軍事的には非常に重要な役割を担います。


南下すれば徐州の下ヒを攻めることができ、黄河を渡って北上すれば、公孫サンの襄平を攻めることが可能です。


つまり、曹操、公孫サンに対して攻略ルートが2通りになったのです。


例えば南皮から関羽の軍を出陣させ、北平を攻めさせておき、そちらに兵が集中したところで北海から北上して襄平を奪い、そのまま襄平から北平へと攻めることが可能となります。


それに、孫乾、太史慈という外交と戦闘において主力となる武将も手に入りました。


そろそろ、同盟を破棄し、公孫サンか曹操のどちらかと雌雄を決する必要がありそうです。