歎異抄(たんにしょう)は浄土真宗の親鸞聖人の教えが書かれた仏教書。
タイトルの引用文は日本思想史上最も有名な一文なのだそう。(知らなかったけど...)
歎異抄は解説本が多くあったりと意味の解釈が難しいものらしいですが(カミソリ聖教)、個人的にこの文章がなんかグッときたというかしっくりきたので、ここに残します。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
引用元:『歎異抄』第3章
以降、このページでは私の解釈で話を進めます。
意味はざっくり言うと
「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」
「往生」という文言を「救われる」と訳しましたが、これは「極楽浄土へ往ける」でも「幸せになる」でもOK。
さて、ここで「善人と悪人、逆じゃない?」という疑問が出てきますが、これについては後続の文章が説明をしています。
しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。
引用元:『歎異抄』第3章
超訳すると
「ところが、世間の人はよく『悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる』と言う。
まあ一応それらしく聞こえるけど、本願他力の趣旨には反するのよね。」
自力が「自身の努力や修行で悟りを開くこと」なら
他力は「阿弥陀如来の無限の慈悲に頼ること」で
浄土真宗は「他力」推しです。
そして、すべての人に平等に開かれている教えです。善人悪人関係なく。
善人悪人関係ないことは分かりましたが、わざわざ両者を分けて説明している点が消化不良です。
善人と悪人について意味を見てみます。
善人とは「自分は何も悪くないと思っている人」
悪人とは「自分は悪いところもあると思っている人」
言い換えると
善人とは「自身を顧みない人」
悪人とは「自身を顧みる人」
つまり自覚の有無。
これを踏まえ意味を再考すると、以下になります。
「自分の悪に気がついていない"善人"でさえ救われるのだから、自分の悪に気がついた"悪人"はなおさら救われる」
ちなみに、親鸞は「悪人」をどう言っているかというと
「悪人とは全人類のことであり、人間の代名詞にほかならない」
つまりは人間は皆悪人なので、自分を善人だと勘違いしちゃいけないよ?ということです。
所詮人間だもの。みんな違ってみんな悪い。
結論、
人間はみな悪人。浄土真宗はすべての人に平等。
『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』
この言葉が誕生したのは、自分を善人と信じて疑わない弟子たちへの説法だったのではないかと個人的には妄想しています。
私の周りにも善人が多いです。
■参考