昨日の地震には本当に驚かされました、コロナに、オリンピックのトップ

交代、それに地震と、何が起こるか、わからない2021年

だからこそ、自分の余命も考えて、心の断捨離をしようと思いたちました。

 

そこで、あれこからかたづけたら、33年前の夜のヒットスタジオの台本が

出てきました。なので、この番組の話から紹介していきたいと思います。

 

 

何故か、縦になりませんがご容赦。

 

その前の週、1988年2月10日に芳村真理さんが1000回で、勇退。

東京プリンスホテルからの生中継でした。

真理さんから配られてた、このテレホンカードは大事な記念品です

もう一つ、ヒットスタジオのガラスの盾が番組関係者に配られましたが

ー今、捜しています。

当時、私は、もう塚田茂先生が主催していたスタッフ東京を離れて、

オフィスクラッシュという自分の事務所をやっていました。

スタッフ東京をやめるという事は、夜のヒットスタジオをやめる事と

いう当時の状況で、全く後ろ振り返る事なく我が道を進むというまあ、

調子にのってた、いい時代でした。

 

しかしながら、その当時、鬼とかいろいろに言われていた大プロデ

ュサーの疋田拓さんはなく、後輩に後をゆずったつもりの構成者

の立場も、スタッフ東京以外の構成者の名前に変わっていました。

しかし、1000回の番組内容は、豊富な過去の素材を見せるという事

で、昭和50年からこの番組に塚田先生の弟子としてかかわっていた

私が呼ばれました。

私は3年ぶりで、夜のヒットスタジオの仕事をいただきました、1000回

と1001回の5時間の分の素材作りと台本作りが私の仕事でした。

1001回の台本には、VTR構成小林久枝と明記してあります。

 

当時は、今のようなパソコンで編集が出来るわけではなく、オフラインという

作業は、編集所で、オペレターがついての作業でお金も時間もかかりました。

1000回20年の歴史は、1500本のテープに残されていました

そこから、1000回用に、27本のVTR、1001回用に20本のVTRを作り

ました。

 

これにかっかた時間、記憶はあいまいですが3カ月ぐらいですか?

私は、日本一イマジカが大好きな構成作家になりました、1500本の

ビデオテープの上に寝ていました。家に帰る時間が惜しいそんな感じです

選ぶ人の目は一人がいいと、編集するディレクターは交代でも、素材を選ぶ目

は私一人でとはりきりました。

だって、この時しか、プロデュサー疋田拓さんの番組でもテレビ界のドン、

巨匠塚田茂の番組でなく、小林久枝の夜ヒットスタジオといえたんですから

あげく、構成料としては、破格のギャラ、100万円をとりました。

 

1001回の放送のVTRの中でも、記憶に残っているのは

 最初に登場した 1頑張れ叔父さん編 3分27秒

 吉幾三、大川栄作、森進一、奥田瑛二、南こうせつ、前川清さんの

 ちょっとドジな失敗VTRに、あの村田英雄先生に私がセレクトしたメドレー

 聖子ちゃん、ひろみちゃん、おニャンコの歌に挑戦していただいた3連発

 

最初に村田先生に、聖子ちやんの歌をうたわせた時には、思いっきり

疋田さんに文句を言われた記憶がありますが、このミスマッチが面白い

とおし切った私の勝ち、それに、村田先生はそんな事で文句を言う方

ではありませんでした

 

単に、ベテランの歌を羅列するのだはなく、その歌手の素顔が思わず出た

瞬間を膨大なVTRから捜し出すわけですから

大変な作業なわけです。

 

私は、ただ、この編集作業に慣れていました、私が夜のヒットスタジオに

塚田先生の弟子として台本を書かせていただくようになったのが昭和50年から、

400回記念だとか、10周年、15周年とかいうような番組が増えて、

昭和43年(1969年)11月4日の初回の歴史から残っているテープを全部見る

立場にあり、ベターもビデオもない、生放送で、藤森部長がようやく収録していた

ボロボロのテープから見る事になったのですから、よく知ってて当然、担当していた

9年間で、本番休んだのは1回だけだし、当時は記憶力もさえていたので、イマジカ

での作業は楽しいものでした。イマジカは第二の家という感じでした。

ただ、この素材編集の段かいで、一つ残念なテープが、それは18本目の衛星中継

歌MAPというテープ

それは、ビージズのマイアミから始まり、ティナターナーのハンブルク、ジャネットジャクソン

のLAなど総勢20アーティスト、世界13カ国の中継、これぞ、ヒットスタジオの底力という

豪華絢爛な音楽の世界絵巻でした。

それを、私は、担当の平野ディレクターに、WE ARE THE WORLDの歌声をベースに、

外人アーテイストの歌っている口に合わせる事は出来ないか?

と無理難題をもちかけました、確か、試してくれたのですが、テンポも違うし、無理とあき

らめざるを得ませんでした、このVTRのしめは、マドンナの東京、フジテレビでした。

 

ーしばらく、夜のヒットスタジオの話をしますが、私がどうやってテレビ業界のいい時代に

身を置くことが出来たのか、昔の資料も提示しながら記憶を呼びもどして話を続けて

いきたいと思います。

明日は夜のヒットスタジオ編NO2です。