アカエイのエピキュリアン日記 -1394ページ目

三島由紀夫「花ざかりの森」(1)

花ざかりの森


かの女は森の花ざかりに死んで行った
かの女は余所にもっと青い森のある事を知っていた
                  シャルル・クロス散人


序の巻


 この土地へきてからというもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。もともとこの土地はわたし自身とも、またわたしの血すじのうえにも、なんのゆかりもない土地にすぎないのに、いつかはわたし自身、そうしてわたし以後の血すじに、なにか深い聯関をもたぬものでもあるまい。そうした気持をいだいたまま、家の裏手の、せまい苔むした石段をあがり、物見のほかにはこれといって使い途のない五坪ほどの草がいちめんに生いしげっている高台に立つと、わたしはいつも静かなうつけた心地といっしょに、来し方へのもえるような郷愁をおぼえた。この真下の町をふところに抱いている山脈にむかって、おしせまっている湾が、ここからは一目にみえた。朝と夕刻に、町のはずれにあたっている船着場から、ある大都会とを連絡する汽船がでてゆくのだが、その汽笛の音は、ここからも苛だたしいくらいはっきりきこえた。夜など、灯をいっぱいつけた指貫ほどな船が、けんめいに沖をめざしていた。それだのにそんな線香ほどに小さな灯のずれようは、みていて遅さにもどかしくならずにはいられなかった。


 いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもいかえしていた。それはほんの一、二年まえまでのことである。わたしはある偏見からこんなふうに考えていた。追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎぬではないか、よしそれが未来への果実のやくめをする場合があったにせよ、それはもう現在をうしなったおとろえた人のためだけのものではないか、なぞと。熱病のような若さは、ああした考えに、むやみと肯定をみいだしたりしがちのものである。けれどもしばらくたつうちに、わたしはそれとは別なかんがえのほうへ楽に移っていった。追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索めたりすることはできなしないのだ。それは落ち葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落ち葉たちは決して空を映すことはできないのだから。


 わたしたちには実におおぜいの祖先がいる。かれらはちょうど美しい憧れのようにわたしたちのなかに住まうこともあれば、歯がゆく、きびしい距離のむこうに立っていることもすくなくない。
 祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑うかもしれない。だがそれは真実なのだ。
 木洩れ日のうつくしい日なぞ、われわれは杖を曳いて、公園の柵に近よったりするであろう。門をはいると、それがごく閑散な時間かなにかで、人かげのみえぬひろい場所が、たぐいない懐しいものに思われたりするであろう。ふだんは杖なんぞ持つことのないくせに、なんの気なしに携えてきたそれは、遠い昔、やっとのことで、一秒か二秒のあいだ触らせてもらった家宝の兜の感触なんかを、ふっと、おもいださせてくれたりするだろう。そんなときだ。
 遠くの池のほとりのベンチで、(それは池の反射や木洩れ日のために、たぶんまばゆく光っているのだが)だれかが行儀よく身じろぎもせずに憩んでいる。ふとその人がこちらをむく。するとなぜか非常に快活な様子で立ち上って、ほとんど走り出さんばかりに、木洩れ日をぬってこちらへ近づいてくる。われわれは子供っぽいまでの熱心さで、あたかも予期していた絵のようにその人を見つめているにも不拘、ある距離までくると魚が水の青みに溶け入って了うように、急激にその親しい人は木洩れ日に融けてしまう。――しかしおそらく、このわたしの告白から、ひとは紋付と袴をつけた大まかな老人を想像するかもしれぬ。いや、する方が本当かもしれない。が、そうした場合は、却ってすこぶる稀なことだと申してよい。なぜなら「その人」は、度々、背広をきた青年であったり、若い女であったりするからだ。と云って思い過ぎてはいけない。かれらはみな申し合わせたように、地味な、目立たない、整った様子をしている、たいへん遠くからわれわれに微笑をつたえてくる、まるでわれわれの中にそうした微笑だけをひきつけてみせる磁石でもあるかのように。その微笑は、だが切ない、憧れにも近いようなひたむきさを見せている。・・・・・・
 祖先がほんとうにわたしたちの中に住んだのは、一体どれだけの昔であったろう。今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれているので、そのなかに住いを索めることができない。かれらはかなしそうに、そわそわと時計のようにそのまわりをまわっている。こんなにも厳しいものと美しいものとが離ればなれになってしまった時代を、かれらは夢みることさえできなかった。いま、かれらは、天と地がはじめて別れあった日のようなこの別離を、心から哀しがっている。厳しいものはもう粗鬆な雜ぱくな岩石の性質をそなえているにすぎない。それからまた、美は秀麗な奔馬である。かつて霧ふりそそぐ朝のそらにむかって、たけだけしく嘶くままに、それはじっと制せられ抑えられていた。そんな時だけ、馬は無垢でたぐいなくやさしかった。しかし今、厳しさは手綱をはなした。馬はなんどもつまずき、そうして何度もたち上りながらまっすぐに走っていった。もう無垢ではない。ぬかるみが肌をきたなく染め上げてしまっていた。ほんとうに稀なことではあるが、今もなお、人はけがれない白馬の幻をみることがないではない。祖先はそんな人を索めている。徐々に、祖先はその人のなかに住まうようになるだろう。ここにいみじくも高貴な、共同生活がいとぐちを有つのである。
 それ以来祖先は、その人の中の真実と壁を接して住むようになる。このめまぐるしい世界にあっては、ただ弁証の手段でしかなかった真実が、それ本来の衣裳を身につけるだろう。いままで、怠惰であり引っこみ思案であったそれが、うつくしい果敢さをとりもどすだろう。祖先はじっと、そのあらたな真実によって、はぐくまれることを待つだろう。まことに祖先は、世にもやさしい糧で、やしなわれることを希っている。その姿ははたらきかけるものの姿ではない。かれらは恒に受動の姿勢をくずすことがない。もののきわまりの、――たとえば夕映えが、夜の侵入を予感するかのように、おそれと緊張のさなかに、ひときわきわやかに輝く刹那――、あるがままのかたちに自分を留め、一秒でもながく「完全」をたもち、いささかの瑕瑾もうけまいとする、――消極がきわまった水に似た緊張のうつくしい一瞬であり久遠の時間である。

一握の砂(29)

力なく病みし頃より
口すこし開きて眠るが
癖となりにき


人ひとり得るに過ぎざる事をもて
大願とせし
若きあやまち


物怨ずる
そのやはらかき上目をば
愛づとことさらつれなくせむや


かくばかり熱き涙は
初恋の日にもありきと
泣く日またなし


長く長く忘れし友に
会ふごとき
よろこびをもて水の音聴く


秋の夜の
鋼鉄の色の大空に
火を噴く山もあれなど思ふ
※鋼鉄=はがね


岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ


父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に


秋来れば
恋ふる心のいとまなさよ
夜もい寝がてに雁多く聴く


長月も半ばになりぬ
いつまでか
かくも幼く打出でずあらむ

一握の砂(28)

かりそめに忘れても見まし
石だたみ
春生ふる草に埋るるがごと


その昔揺籃に寝て
あまたたび夢にみし人か
切になつかし


神無月
岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ


ひでり雨さらさら落ちて
前栽の
萩のすこしく乱れたるかな


秋の空廓寥として影もなし
あまりにさびし
烏など飛べ


雨後の月
ほどよく濡れし屋根瓦の
そのところどころ光るかなしさ


われ饑ゑてある日に
細き尾を掉りて
饑ゑて我を見る犬の面よし
※饑ゑて=うえて 掉り=ふり


いつしかに
泣くといふこと忘れたる
我泣かしむる人のあらじか


汪然として
ああ酒のかなしみぞ我に来れる
立ちて舞ひなむ


蛼鳴く
そのかたはらの石に踞し
泣き笑ひしてひとり物言ふ
※蛼=いとど(こおろぎ) 踞し=きょし

山羊の歌(2)

都会の夏の夜


月は空にメダルのやうに、
街角に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――


その唇は胠ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。


商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更――


死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。


※胠き=ひらき
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秋の一日


こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。


夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。


今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。


    (水色のプラットホームと
     躁ぐ少女と嘲笑ふヤンキイは
     いやだ いやだ!)


ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑をでも探して来よう。


※蹲んだ=しゃがんだ 躁ぐ=はしゃぐ 布切屑=きれくず
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黄昏


渋つた仄暗い池の面で、
寄り合つた蓮の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。


音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐ふ・・・・・・
黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて来ない。


なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私を見てゐる。


――竟に私は耕やさうとは思はない!
ぢいつと茫然黄昏の中に立つて、
なんだか父親の映像が気になるだすと一歩二歩歩みだすばかりです


※竟に=ついに 茫然=ぼんやり
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一握の砂(27)

秋の辻
四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の
あと見えずかも


秋の声まづいち早く耳に入る
かかる性持つ
かなしむべかり


目になれし山にはあれど
秋来れば
神や住まむとかしこみて見る


わが為さむこと世に尽きて
長き日を
かくしもあはれ物を思ふか


さらさらと雨落ち来り
庭の面の濡れゆくを見て
涙わすれぬ


ふるさとの寺の御廊に
踏みにける
小櫛の蝶を夢にみしかな


こころみに
いとけなき日の我となり
物言ひてみむ人あれと思ふ


はたはたと黍の葉鳴れる
ふるさとの軒端なつかし
秋風吹けば


摩れあへる肩のひまより
はつかにも見きといふさへ
日記に残れり


風流男は今も昔も
泡雪の
玉手さし捲く夜にし老ゆらし