吾妻線(太子支線)を訪問 | gayasan8560のブログ

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趣味の鉄道、街歩きネタを中心としたブログです。鉄道については、主に歴史的視点からの記事が多いです。

 昭和46年まで、現在の吾妻線には長野原駅から太子(おおし)駅まで4.6㎞の支線が存在していました。終点の太子駅には群馬鉄山で採掘された鉄鉱石を積み込むためのホッパーが設置されていて、その遺構が現在も残っているということで、友人たち数人と訪問してきました。

 

 群馬県にあるJR東日本の吾妻線のうち、渋川駅から長野原駅までの42.4㎞の区間は昭和20年1月に開通しました。資材も労働力も不足している太平洋戦争末期という時期に、着工(昭和18年10月)から僅か1年強で完成に至ったのは、吾妻線(開通時の線名は長野原線)が軍需路線であったからです。

 群馬県六合村(現在の中之条町)には、草津白根山の火山堆積物の上に沈殿堆積された褐鉄鉱の鉱床がありました。硫黄分の多い質的には問題の多いものだったようですが、海外からの鉄鉱石輸入が途絶していたこの時期には貴重な資源です。日本鋼管鉱業が採掘権を取得して開発することになりました。採掘した鉄鉱石の運搬にあたっては、1922年の鉄道敷設法の別表に盛り込まれていた「五十四 群馬県渋川ヨリ中之条ヲ経テ長野原ニ至ル鉄道」の路線を建設するとともに、終点の長野原駅から太子駅まで線路を敷設し、群馬鉄山から索道で運んできた鉱石をホッパーで貨車に積み込むこととしました。長野原駅から太子駅までの区間は鉄道省(昭和18年11月以降は運輸通信省)ではなく日本鋼管群馬鉄山専用線として建設されましたが、建設中は長野原駅構内側線という名目で実質的には国により建設されたようです。

 余談になりますが、嬬恋村にあった上信鉱山から採掘されるアルミ原料を運搬するために、長野原駅から嬬恋駅(草軽電鉄と現在の吾妻線が交差する辺り)までの区間についても軽便鉄道(上信鉱業専用軽便線)が建設されていました。こちらは終戦に間に合わず未成線となりましたが、その一部が吾妻線の大前延伸時に利用されたものと思われます。

 

  写真1 昭和22年米軍撮影の航空写真(国土地理院)

 

 長野原駅(写真の下方向)から太子駅までの線路が白砂川右岸(写真では左側)沿いに確認できます。さらに目を凝らしてみると、群馬鉄山と太子駅を結んでいた索道らしきものも確認できます。索道は最大3本が稼働していたようです。

 

図1 太子駅跡周辺(国土地理院地形図+スーパー地形:カシミールにより作図)

 

 日本鋼管群馬鉄山専用線は開通当初は貨物専用線でしたが、昭和27年に国鉄に編入され長野原線の一部となり、昭和29年には旅客営業も開始されました。しかし、昭和41年に群馬鉄山が閉山となり貨物営業が廃止され旅客のみの営業となったのち、昭和45年11月に営業休止となりました。当初は長野原線の大前駅方面への延伸に関連した長野原駅構内改良工事のため昭和46年4月いっぱいの期間限定ということでしたが、結局5月1日付で廃止となりました。なお、長野原線は昭和46年3月に吾妻線に名称変更しているので、書類上は太子駅の廃止は吾妻線になってからなのですが、実際は吾妻線として列車が運行されたことはありませんでした。

 長々と太子駅の歴史を述べてきましたが、ここからは実際に太子駅の訪問記となります。太子駅跡は長らく放置されてきましたが、クラウドファンディング等なども利用しながら復元、整備が行われ平成30年4月から一般公開されています。

 

 

 当時の太子駅舎を模した建物が資料館です。施設への入場料は200円でした。実はここに来るまで道草しすぎたため閉館時刻(16時)の10分前に現地に到着したため、超駆け足での訪問となってしまいました。そのため、この建物の手前にあったトイレが当時から残る貴重な建物であったことに気づきませんでした。

 

 

ホームやレールは復元されたものです。

 

 

 大井川鉄道などから譲り受けた貨車が展示されています。SLも展示すべくJR東日本と交渉中のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 なんといっても見どころは、当時のホッパー施設の遺構です。現役時代が3層構造だったようですが、現在はその最下層部のみが残っています。コンクリートの劣化が進んでいるようで、ホッパー内部は立ち入り禁止になっていました。施設が整備される廃墟時代に訪問された方の記事には、ホッパー内部の写真が多数掲載されており羨ましいかぎりです。もっと早く来ればよかったです。

 

 

 

 長野原駅から太子駅の廃線跡のうち、太子駅寄りの一部区間は道路に転用されており車で訪問することが可能です。第一愛宕、第二愛宕という2つのトンネルは道路転用後にも利用されています。最後の写真はトンネルポータル部にあった標識です。「自 46.・・」とあるのは渋川駅起点からの距離でしょうね。

 駆け足での訪問になり、当時の転用された道路に当時の橋梁が使われていることなども気づかずに通り過ぎてしまいました。今度機会があったら、今は公園になっている群馬鉄山鉱山跡も合わせて、ゆっくりと訪問したいものです。