今坂中尉の憂鬱な一日(昭和6年の陸軍自動車学校) | gayasan8560のブログ

gayasan8560のブログ

趣味の鉄道、街歩きネタを中心としたブログです。鉄道については、主に歴史的視点からの記事が多いです。

世田谷区桜丘にある東京農業大学は、終戦まで陸軍自動車学校(昭和16年以降は陸軍機甲整備学校)が設置されていた場所でした。陸軍自動車学校とは、いったい何をする場所だったのでしょうか。
学校という名前が付いていることからもわかるように、主に軍事用の自動車に関する教育、研究が行われていたようで、後者の研究項目の中には、木炭自動車用のエンジンに関するものなどもありました。前者の教育についてみると、まずはとにかく自動車の運転方法を教えるところから始まったようです。
自動車の普及が進んでいなかった戦前の日本では、自動車の運転免許を持っている若者なんて、ごく僅かしかおらず、輜重部隊など自動車の運転が必要となる部署に配属される場合には、自動車運転の教育が必須だったわけです。運転の教育は、現在の教習所と同じように学校敷地内(所内教習)での訓練がある程度進んだ段階で、校外(路上教習)での訓練も行われたようです。
前書きが長くなりましたが、今回はそんな自動車学校の校外訓練(路上教習)中に発生した、ある国際的な事件について紹介したいと思います。

イメージ 1
       (陸軍自動車学校で使用されていた乗用車)

昭和6年6月18日午前8時、今坂中尉は下士以下31名を引き連れ8台の乗用車に分乗して、初年兵乗用自動車野外応用操縦訓練演習のために学校を出発しました。一行は、溝口、橋本、中野(今の津久井湖近辺)、与瀬(今の相模湖近辺)を経由した後、八王子方面に向かうため、午後2時頃に大垂水峠を下りはじめました。そのとき、1台の乗用車が後方より近づいてきて、自動車学校の乗用車を次々に追い抜きはじめました。そして中尉の乗車する先頭車の後ろに付けると、横によけろとクラクションを鳴らし始めたのです。しかし、中尉はちょうど道が狭隘で勾配のきつい区間だったこともあり(運転していたのは初年兵)、そのまま数分走行して道幅がやや広がった場所で車を左に寄らせて、後方の車を追い抜かせました。ところが、追い抜いた車は中尉一行の進路を妨害する形に車を停めると、中から外人が降りてきて中尉に向かって「ラッパ聞イタデセウ何故ヨケヌ」と怒鳴り始めました。外人はアメリカ大使館附の海兵隊少尉のPでした。そして今坂中尉とP少尉がしばらく言い合いした後、P少尉が走り去っていったというのが、この事件の顛末です。なお、今坂中尉一行は午後9時頃に自動車学校に無事到着しています。

この事件は、アメリカの軍人が陸軍軍人に侮辱的な言葉をかけた、として陸軍内で問題となり、外務省を通じてアメリカ大使館に抗議する事態となりました。ただし、それ以上には大事にならず、アメリカ大使から「P少尉ニキツク叱ッテオクヨ」的な言質を取ったことで解決したようです。これがあと数年遅く、もっとアメリカとの関係が悪化してから起きていたら、もっと大事になっていたかもしれません。昭和6年6月というのは、そういう意味でぎりぎりの時期でした。(この年の9月に満州事変勃発)

ぎりぎりの時期とはいえ、アメリカの武官にはそれなりの監視が付いていたようで、この事件に関する文書には、P少尉の日本国内での行動記録が添付されています。最後にP少尉の人となりがわかるエピソードを紹介しましょう。

P少尉は、昨年10月まで静岡県内のホテルに滞在し、現在は某病院医師宅に寄宿している。ホテル滞在時にはその女中と関係を持ち、今は病院の元雇人の妻と関係している(夫黙認の注釈有り!)。彼女達には毎月30~40円を与えていた。その他、婦人家庭教師、芸者、ダンサー、女給等ともよろしく交際している模様。

P少尉の日本女性への友好的かつ慈愛溢れる姿勢が伺える、なんとも心温まるエピソードでした。監視していた憲兵諸君の心中をお察しします。ちなみに、今回の事件の際も、日本女性2人が同乗していたということを最後に申し添えておきます。