いったいどれだけのスモーカーがやめたいと思いながらたばこを吸っているのだろう?

一度も禁煙を考えた事がない、心底からのスモーカーは、この世の中にいったいどのくらいいるのだろう?

これだけ禁煙に関する本が出版され、ニコチンガムやらパッチやらが販売され、セラピーやインターネット禁煙マラソンや禁煙道場が存在する、ということは、ほとんどのスモーカーが一度くらいは禁煙を考えたことがあるのではないか。

それにもかかわらず、たばこをいまだに売れ、スモーカーが存在するということは、いかに禁煙がむずかしいかということだ。


禁煙が難しいのではない。

自分にぴったり合った禁煙法にめぐり合うことがむずかしいのだ。

それさえ見つけてしまって、、自分の心身の状態のタイミングを合わせれば、たばこを吸わない生活に入ることはそんなに難しくない。

あとは気持ちを切り替えればよい。


私は、ありとあらゆる禁煙法を試し、投資し、時間を費やし、そのたびに失敗しては絶望感に陥った。

今から思うと、それは決して無駄だったのではなく、たばこのない生活に移行するための準備期間だったと思う。


最後にえいっと壁を乗り越え、喫煙生活から煙のない生活へ移動するには、エネルギーもいるし、体力もいる。

また、考えを整理し、理論武装することも必要だった。

何しろ、ニコチンは多くのさまざまな罠をしかけ、あの手この手で喫煙世界に私をとどまらせようとするから。



何度も言うように、私にとって禁煙は我慢であってはならない。

そもそも「禁煙」という言葉も、「普通だったらたばこを吸うのに、それを一時的に禁止している」というニュアンスが感じられるので、しっくりこない。


これから一生涯、たばこを吸わないことが普通であるように。

我慢してではない、吸わないことが本来の私であるように。

胸が騒いで一杯になった時、たばこを吸えばどうだろうか、と思わないように。

忙しくて心がささくれ立ち、ひねくれた自分を持て余したとき、たばこを吸ってみようか、などと思わないように。


もともと余分なものなのだから。

たばこを吸わないことがマイナスになって、ぽっくり心に穴があくのではない。

たばこを吸うことは、本来の私にはない、余分なことなのだから。

そして、本来の私は過ぎてゆく時を愉しみ、慈しみ、生命のリズムを持ち、みずみずしい。

私本来の命の律動を持って日々を暮らしてゆく。

それは透明で、くっきりしたまぶしい輝きに満ちている。

今日を微笑みを持って終わり、明日への希望へとつなげる。


単にたばこをやめただけではないのだ。

私にとってたばこは白か黒か、吸うか吸わないか、どちらかだ。

お酒の席だけ吸うとか、一ヶ月に一本だけ吸うとかは、ありえない。


一ヶ月に一本だったら、吸わないのと同じじゃないかと一見思えるが、全然違う。

たとえ一ヶ月に一本だったとしても、黒だから、ニコチン依存なのには変わりはない。

いや逆に、一本終えてから次の一本を吸うまでの時間が長い分、悲惨かもしれない。

なぜか?


一本吸うのにだいたい5分かかる。

そしてそのニコチンが体に残っている時間を20分としよう、つまり25分。

この25分がニコチン依存者にとって、ニコチンが体内にある、幸せな時間だ。

ところで一日は60分×24=1440分。

一ヶ月は1440分×31=44640分。

一ヶ月に一本だけ吸うとすると、25分以外はたばこを我慢することになる。

つまり、44640-25=44615分。

これが、一ヶ月に一本吸うスモーカーの、一ヶ月に我慢しなくてはいけない時間だ。

毎日40本吸うヘビースモーカーよりも、我慢する時間が膨大な分、苦しい時間を背負っていると言える。


だから、一度ニコチンに依存してしまった私は、吸うか吸わないか、白か黒かしかないのだ。



ニコチン依存とアルコール依存は何が違うのだろう?


私はお酒が好きで、特別の事がない限り、毎日なにかしらのお酒を飲む。

仕事からの帰り道、夕食のおかずを考えながら買い物をするのだが、まず飲みたいお酒が先にあり、それからレシピを考える。

今日は赤ワインの気分なら味付けの濃いお肉、冷えた日本酒なら魚の塩焼き、芋焼酎なら湯豆腐にでもしよう、などというように。


くたくたになって家に着いたら、まず猫にごはんをやる。

冷蔵庫に買ってきた食材を詰め、植木に水をやり、シャワーを浴び、夕食を作りながら、ビールを一本。

そして夕食ができたら、それと飲みたかった酒を一緒に、改めて味わう。

ぐでんぐでんに酔っ払わない程度に楽しんだら、最後にごはんとお新香とおみおつけで満腹。


これを毎日、365日。

仕事が終わった後の、夜の私の楽しみだ。

飲むときのパターンや時間が決まっているのも、たばこと同じ。

これは、今度はアルコール依存なのではないのか?

ただ単に「大好き」と、「依存」はどこが違うのだろう?


たばこは私のとって「吸う」か「吸わない」か、白か黒か、どちらかだ。

灰色はない。

この先絶対に一本も吸わないか、やっぱりニコチンの鎖でつながれてしまうか、のどちらかだ。

たとえ一ヶ月に一本しか吸わなくても、その鎖が長くなっただけであり、それは私にとっては黒であり、スモーカーだ。

時々吸う、ということはありえない。

お酒の席だけ吸うスモーカーになろうと憧れて、何度も失敗したではないか!


そして私は「白」であることを選んだので、この先一生、絶対に一本たりともたばこは吸わない。

でもアルコールはどうなのであろうか?


毎日お酒を飲むことが楽しみで、実際毎日飲んでいるわたh詩は、依存しているのだろうか?

ただ単に好き、なだけなのだろうか。

何が違うのだろう。


たばこをやめても身体機能が上がったという自覚症状はない、とこないだ書いたが、一つだけあった。

異常に鼻がきくようになったのだ。

でもそれはたばこに関してだけに限られている。


元々嗅覚というのは、人間の感覚の中でも一番敏感だと聞いたことがある。

しかしすぐに麻痺するらしい。

たばこをやめてからはたばこのにおいにものすごく敏感になった。


たとえばうちはマンションの8階なのだが、道路を一つはさんだ向かい側でビルを建設中だ。

ベランダに出てみると、休憩時間にその建築現場で働いている人たちがたばこを吸っているにおいがする。

どのくらい離れているのだろうか、少なくても目で確認できないくらいなので100メート路は離れているだろう。

こんな距離でも、しっかりたばこのにおいはわかる。

もちろん風向きにもよるが。


職場で、書類を点検していると、そこからたばこのにおいがする事がある。

この書類を作成した人は、たばこを吸いながらだったのか。

あるいは喫茶店などで書き上げたのだろうか。


電車などで隣に座った人が喫煙者かそうでないか、100%わかる自信がある。

たばこを吸う人は細胞の穴一つ一つから、たばこのにおいがするからだ。

(そして、けっして私は嫌いなにおいではない。)


こんなに異様にたばこに関して嗅覚が鋭くなったのは、元スモーカーだからだろうか。

元々たばこを吸わない人はどうなのだろう?


いずれにしても、私が隠れスモーカーだった時、歯を磨いたり、きつい味のキャンディーやガムを食べたりして、においをごまかしていたつもりだったけれど、そんなことではたばこのにおいはとてもとてもごまかせないのだ。

消えたと思っているのは本人だけだ。

私が高校生だった時、母親や先生は私のこのにおいに気づかなかったのだろうか?

それとも気づかぬふりをしていたのか?


そういえば我が愛猫は、私がベランダでたばこを吸い終えて家の中に入っていくと、すごい勢いで突進してきて、足に噛み付いたものだった。

猫の嗅覚は人間の数万倍というから、きっとものすごいにおいだったのだろう。

そして、猫は絶対にたばこを吸わないから、ニコチンに依存する事もないから、彼女にとってそれは嫌なにおいだったのだろう。