インドネシアと関わって20年

 

20年というと、ガチャ美さんおいくつ?

と言われる。

子供の頃からいるんです。

と、言われると納得される。

 

1998年3月21日に

ガチャ美ファミリーはスカルノハッタ空港に到着。

 

二ヶ月先に父親が入国済。

 

今思うと、母は一人で

当時13歳の兄と

10歳の私と双子の子

6歳の弟

4人の子供を成田から連れて来たのだ。

 

 

スカルノに着き

父親、父親の会社の人4人(インドネシア人2名とと日本人夫婦)が

迎えに来てくれる。

 

ガチャ美が初めて覚えたインドネシア語

kijang 鹿

車種がkijangだったから。

 

 

それがインドネシア初日。

 

 

 

まさか20年後、インドネシアと関わる仕事をするとは

全く思っていなかったのです笑笑

 

当時は、日本でもインターネットとかする人は

ほとんどいなかったし

スマフォもなかったし

NHKしか見れなかったし

吉野家もユニクロもなかった。

 

それでもインドネシアを選んだのは

家族みんな一緒という方針。

 

特にガチャ美はパパがいないと

情緒不安定になるややこしい子だったから笑

 

 

2年に一度は引っ越していました。

その度についていっていた。

ガチャ美はついていくだけだから

両親はすごいと思う。

 

20年でインドネシアは大きく発展したから

今の人はいーなーと純粋に思うし

まだ、足りないといわれると何で!?と思う。

 

ガチャ美の先生は船でインドネシアに行き

三ヶ月に一度妹から来る

日本の新聞が心の支えだったとか

言っているからな。何十年前だよ?

戦前の話!

 

 

インドネシアのマンションはすごくて

プール、テニスコートがあるの当たり前

 

敷地内のプールで遊んだり

テニスしたり自転車こいだり

木登りしてマンゴーとったり

池で釣りしたり

日本で遊ぶより充実

 

学校はスクールバスで楽だった。

 

日本人学校には行ってないけど

マンションのお友達とか日本人だったし

シンガポールやオーストラリアのお友達もいた。

 

当時はA塾、パンセなどの日本人の先生による

日本人向けの学習塾もあった。

今はもっと増えてる。

 

教育レベルを心配する親御さんへ

日本の公立中学よりレベル高いです。

そりゃ灘中と比べたらアカンけど、、

 

ガチャ美は、学習塾にはいかなかった。

兄は日本人の友達欲しさに行ってたけど

ガチャ美、勉強したくないから行かない。

 

その代わり、一橋に留学経験のある

インドネシア人のお姉さんが

家庭教師で、英語と数学を見てくれていた。

 

父の会社の未婚の若い人とかも

遊びに来てくれて

全然寂しくない。

 

これは父の人徳だと思う。

いつも、会社の後輩など連れてきていたし

母も嫌がる顔をしない。

 

飲み会とか行かない代わりに

ほぼ毎週家に連れてくる父(笑)

 

会社の未婚の人も家庭がある環境に来て

嬉しかろう。

 

月一位でかわるがわる出張者が来ていたから

その人らが持ってくるお土産を喜ぶ

いやらしいガチャ美。

 

その人がおいていく週刊誌とかね。

出張者のみなさん、ボロボロの週刊誌でも

こちらは嬉しいんですよ。ぜひ、おいていきましょう(おい)

 

そのため、ガチャ美は父親の会社の人間関係まで

よく知っているのでした。笑

 

飲み会やめて、家で飲もうよ。

奥さんも飲み会嫌がるなら、家に呼べばいいじゃん。

 

ちなみにガチャ美母のしたたかさ

飲み会で遅い父の携帯にガチャ美や兄弟に電話をかけさせていた。

 

お父ちゃん早く帰ってきて―

 

こんなん言われたら帰らざる得ないでしょ?

 

すまなそうに、菓子パンなどを買って帰る父

 

寿司じゃないとこがインドネシア

 

 

 

転勤族だと、子供が友達出来なくてかわいそうというけれど

全然!

確かに同窓会は一度も行ったことないけど

世界中にお友達がいる。

今、FBなんかあるしね。

 

親同士がちゃんとつながっていれば

子供は大丈夫。

 

うちは子供が多いから

お友達がいなくても

兄弟で遊んでいたからさみしくない。

 

これは一人っ子の母と、10歳違いの兄しかいない父は

羨ましがっていた。

 

兄弟仲がいい理由

転勤族

引っ越ししたばかりは遊び相手がいないから

兄弟で遊ぶしかない笑

 

 

私はインドネシアで過ごした子供時代はいい思い出ばかりです。