重なる2つの世界~同じ言葉にも仮相と実相の響きがある
https://ameblo.jp/gattina24/entry-12621215131.html
前回に続いて今回も、こころセラピスト講座を受講して思ったこと
仏教真理学を学んでいると
仏教用語がでてくるので
感じの羅列に見えて言葉の難しさに戸惑ったり
仏教用語の意味をわかろうとして話に追いつけなかったり
あるある
こころセラピスト講座では、
どういうことか丁寧に説明してくれます
みんなが知っている日本語で。
でもね~、よく知っている、普段から使っている日常的な言葉ですが
どうも、その言葉をきいて沸き上がるイメージ、感覚
言葉が示す意味?っていうのかな、
言葉が指している位置?っていうのかな
言葉そのものじゃななくて
話している講師が、その言葉を使って示している意味、のほうがしっくりくるかな
その言葉を使って示している講師の目線の位置、見ている先
そういうものが、
聞いている受講生、私たちがその言葉を聞いてイメージする
それとは違っているんだよね
この2人の言葉の意味は、相当食い違ってそう、、、
講座内で聞いたそのときはわかった気がするのに
後で思い返すとよくわからない
説明しようとするとよくわからない
今回の宇宙の法則、第7回、第8回では特に
「自分」「自由」「責任」
という言葉について、自分がこれまで持っていた感覚とは
違うところの感覚で聞けると、よりわかってくるんじゃないかと思った
すべてのことは
「自己責任」、「自因自果」
自分が悪いとは言えないような状況でも
ひどい目に遭ったなっておもうような状況でも
「自己責任」、「自因自果」
と起こった出来事にたいして説明する仏教心理学には
反発したり、なんで???って納得できなかったり
するんだけど
「自分」を表す言葉(自己も含め)の範疇が自分が思っているのとは違うんだって
わかってくると、ただの現象について話しているとわかる
そこに当然わいてくる感情については一切、いいとか悪いとかの話はしていない
むしろ、苦しい気持ちに寄り添い慈しむまなざしで見ている
と同時に、苦しい感情の嵐に執着することなく、幸せに歩き出せることを信じて見守っている
「責任」という言葉にたいしても同様で
責めを負うという感覚があったり
他人と自分の矢印の中でそれを理解していると
「私は悪くない、あいつが悪い」という感情や
「加害者、被害者」という意識にとらわれて
ありのままに起きた現象のみを見ることが難しくなる
ここは、諸行無常、諸法無我の愛の原理と通じていて
仏教真理学がいうところの「平等」の意味とも通じてくるし
「この世には尊い人しかいない」という先生の言葉にもつうじてくる
んじゃないかんって思っている
病棟、無医島、在宅相談のオールラウンド看護師が伝える
看る目と護る手を身につけるホームセラピー