今日は許され礼拝に参加しました。2週連続です。でも苦しい礼拝でした。

コロサイ3:12-17
 以下メモ:憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。愛されているから。
      できません。したくないのではなくてできないのです。できる自信がありません。
      アーメンが言えなかった。アーメンと言えない礼拝は心が苦しい。神様の遠い
      礼拝。礼拝がいけないのではなく、先生のメッセージが悪いのではなく、自分の
      心が礼拝にふさわしくなかった。

霊的な準備が足りなかったように思う。賛美歌を歌いながら「これは本心か?」と思い出したら
聖歌の最後の部分に歌うアーメンの歌詞を歌えなかった。思い当たる節はいっぱいある。
仕事で思い通りにいかなかったり、悪いなって思ってもそのままにしたり、デボーション生活の不足だったり、寝不足だったり、部屋がまた荒れてたり、モカ(飼い猫)と遊ぶよりも疲れて寝ることを優先したり、、、過去のことを引きづったり、これからのことを思い煩ったり、、、

礼拝にまっすぐに向き合おうとすればするほど、神様の愛よりも自分の罪やふがいなさに目がいってしまった。そんな礼拝だった。晩餐式は特に心が痛かった。もしかしたら不甲斐ないイエス様の弟子たちもあとで最後の晩餐を思い出しては痛く沁みてたのかな。

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教会のあと、天気が良かったので近くの教○の森公園へ一人で散歩をしました。そこには平和があふれていました。ちっちゃな子どもが笑顔で鳩をおいかけて、お父さんとお母さんがそれみてそばで笑ってて、、、小学生がゴムのボールとプラスティックのバットで野球してて、中学生くらいの男の子がサッカーボールでパスをまわしていて、そのそばで家族でマックのポテトをほうばっていて、、、そのそばをしっぽを勢いよく振った犬の散歩をさせている人が通ってました。

幸せの一つの形がそこにはありました。公園の風景を見ながら気付くと、幸せのイメージをするとなく連想していました。自分が幸せなだなって実感したシーンってどこだろう???


それは教会の中にありました。礼拝が終わって、何人かの青年たちが礼拝堂に残って自然とピアノの前に集まって賛美をしている風景でした。礼拝だからではなくて、賛美したいからなんとなくピアノの前に集まって、なんとなく始まった賛美。あの風景を懐かしく思い出しました。僕はまだその時学生で、仕事のつらさも、『まとも』な生活することの大変さ(主に家事とか仕事以外の一般的な生活)も分かっていなかったけれども、、、今よりも純粋に神様のことが好きで、神様のイエス様の愛に敏感だったような気がします。今は礼拝者のメンバーが変わり、、、そういえばああいう賛美しばらくしてないなぁとおもいだしました。


僕は、、、神様をただただ単純に好きで、愛してますといえるポジティブな信仰と、人の哀しみや弱さを断罪するだけじゃない、その人の悲哀(哀歌)に届く目線で信仰を伝えられる、信仰者になりたい。罪に目がいきやすいクリスチャンでなく、恵みに目がいきやすいクリスチャンでもなく、、、僕は両方に目を向けられる人になりたい。「そうゆうクリスチャンになれますよーに」この祈りが聞き入れられるといいな。んー。書いてたら少しだけスッキリしたぞ。