一旬驕話(し):世界観としての序破急
2024年01月10日掲載の「一旬驕語(の):芸術においての序破急」(旧タイトル「一旬驕語(の):序破急」)の続きです。
世阿弥『拾玉得玉』の一節
世阿弥は『拾玉得玉』(日本思想大系24 表章、加藤周一 校注・解説「世阿弥 禅竹」(岩波書店1974年)183ページ以下)の一節で成就という表現について、これは「面白い!」と腑に落ちる感性であり、序破急がうまくいった時がこれに当たる、と説明しています(190ページ)。演者の演技、観客の心持、舞台の雰囲気と進行がすべてツボにはまった時の満足感です。
序破急を判断するレベルの縮小
世阿弥が、序破急は一日の演技の流れにおいてだけではなく一つの演題の中でも達成されるべきだ、と観ていた点は、そして現今では序破急は(長時間にわたって演じられる複数演題相互間においてではなく)単独作品内での構成としてのみ理解されていることは前記「一旬驕語(の)」で述べました。すなわち序破急を入れる風袋が小さくなっているのです。トコロガ……
序破急は一つの演題の中でも達成されるべきだ、と述べた後に直ぐ、一つの舞・一音の内にも序破急の面白さが存する、「舞袖(ブシュウ)の一指(イッサシ)、足踏(ソクトウ)の一響(イッキョウ)にも、序破急あり」(191ページ)、すなわち舞の手の動き、足を踏み進める音の一つ一つの中に序破急があると言うのです。その同じページには、森羅万象、世界のすべて、感情あるなしにかかわらず事みなそれぞれの中に序破急がある、と言います。鳥はその本性に従ってさえずり、虫はそのあり方のままに鳴いている。そこに序破急が存している。だから、そのさえずりや鳴き声に面白さが現れるのである。
これを見れば序破急を入れる風袋がさらに小さくなっていることが分かります。 数日単位での複数演題上演から一日単位での複数演題の上演へ移り、そこから一演目が基準になり、さらには手の一指し、足の上げ下げ一つ一つに序破急を見るようになったのです。
序破急は一翔一声内にある
世阿弥はさらに、人間の芸術という精神活動にだけではなく、鳥のさえずりや虫の声などの自然界の動物の動きを人間が賛嘆する(=面白いと思う)のはそれが序破急システムによって構成されているからだ、と言っているのです。これは、人間の審美感性が自然によって涵養されているからかもしれませんし、自然の多様なる流れを人間が堰き止めたり許容したりして制御している結果かもしれません。
日本人性は動物学的には一翔一声にあり、植物学的には一木一草にある
約600年前に世阿弥は日本人の美的感覚(=「面白い」と感ずるところ)に序破急のリズムを見て、その感性を伝えようと多くの書を残しました。大雑把に言いますと約100年前に竹内好は日本人の精神性を一木一草の中にまで宿っている天皇制に見ました。
「一木一草に宿る天皇制」と聞いた時はナルホドと思い、そのナルホド感は今も残っているのですが、一翔一声の中の序破急は裃を身に着けようとしているような気がします。
このブログ文に序と破はあるのですが、急はありません。辛いことではありますが、序破急で恰好を付けようとしている身にしては学習効果が認められない、という事実が明らかになった次第ではあります。