気がつけば、三輪山の滝行以来、その夜まで、悪霊の障りは一度もなかったのです。阿弥陀様なのか神様なのか、はたまた親父の能力のおかげなのかは分かりませんが、当初の目的である力をつけることはできた、と自信もついてきました。しかし、まだ先のある鎮魂行を止めて俗界に戻る気にはなれず、私は完全に鎮魂法の虜になっていました。
『神の選択』より抜粋
鎮魂法は次なるステップへと進みます。
イメージで丹田につくりだした玉を宇宙大にまで膨らませ、再び丹田へと縮めながら戻した後、体内を循環させます。
その時、玉の視点を丹田で感じている。
要は、内視鏡を入れたかの如く、自分の体内を見ているのです。
あまり気持ちの良いものではないので、意識して見ようとはしないそうですが・・
さらに玉はアジナチャクラ(眉間のあたり)から抜け出し、自分の周りを高速で周回し、その回転する玉をもってどこへでも行ける。
この辺り、やっていることは特殊ですが、文章は平易に書かれており、その補足として下塚さんがブログにおいて解説もしておられます。
よって、蛇足となる私の説明は無しです。
鎮魂法・・・3
鎮魂法・・・4
鎮魂法・・・5
ともしび・・・8
ともしび・・・9
ともしび・・・10
我が身は此処にありて、我が魂は感覚を持ちて時空すらを旅する・・・
何だかワクワクしませんか。
キリスト教の宗教画でよく見かける、天使の頭にある金色のリング。
また、仏像でいえば、後光とも言える、頭の辺りから金色の光を放つ光背。
それらは、高速で回転する魂を表していて、体を抜け出した鎮魂玉そのものなのです。
行を始めて3ヵ月後、不動明王が下塚さんに降りてきます。
鎮魂法を成し遂げたのです。
それでも、東京に戻り仕事に復帰しても、更なる極みを目指し、毎日の行を怠ることはありませんでした。
時々、玉となっている時に近所のコンビニなどに立ち寄り、そこにいるお客さんの特徴を覚えておき、行を中断して急いでお店へ駆け込んでみると、実際にその通りの人がいて、
「よしっ!」
と行が夢幻でないことを確認したりもしたそうです。
不動明王から降魔の剣を授かった日の直後、山梨県の小さな神社の境内にある岩に突然、不動明王の像が現れました。
そのことを偶然手にした雑誌で知った下塚さんは御友人と共に訪れ、そこで収めた写真が本書の栞になっています。
私は去年初めて、その日代御子大神社に詣でておりますが、現在ではもう27年近くが経っており、その姿を判別することは殆ど不可能になっています。
また、栞にはもう一枚、Nさん撮影の史上初めて神が写真に現れたというショットが印刷されていますが、その写真とほぼ同じアングルで、今年の例大祭当日に私の撮った写真がこちらです。
下塚さんのお店には、大きく引き伸ばされたNさん撮影の写真が飾られていて、訪れさえすればいつでも見ることができます。
不動明王や眷属の写っている、その写真の見方ですが、不動明王は中央から下寄りの、光り輝いている部分がそうです。
胡坐をかいて、体よりも大きな剣を持って座っています
コノハナサクヤヒメは頭を向かって左にして、不動明王に抱きかかえられる様にしています。
栞を右回りに90度回転させると、剣のもとに顔があり、雛人形のお姫様のような姿でいるのが確認できます。
コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)は浅間神社の主祭神で、その父親、大山祇さんも写っています。
左側にある大獅子岩の上部、栞で言えば真ん中くらいの高さのかなり左寄りに、コノハナサクヤヒメを見守る様にしています。
不動明王の頭のすぐ真上には、日代御子大神社の開祖である西雲さんの顔も見えます。
明王よりは色合いがやや暗いですが、こちらを向いています。
不動明王の頭の右側60度ほどの上方、1cmくらいの位置に黄緑がかった光がありますが、そこからわずかに右にずれた1mm上方の暗がりに、気持ちうつむき加減の下塚さんの顔が写っています。
その向かってすぐ右側には下塚さんの御尊父が写っています。
本書の栞はトリミングされているので、残念ながら
「将来出会うであろう少女」
の姿は入っていません。
不動明王の向かって右側には、その背中を寄り添うようにして制多伽童子(せいたかどうじ)が巻物を自分の顔の前で広げて眺めている姿で現れています。
制多伽童子は不動明王の八大童子の一人で、世のすべての人々の行動ひとつひとつを残らず記録に留める役目を負っている眷族です。
制多伽童子が視線を落とした5mm程先には、カルラ(迦楼羅)の頭が右向きであります。
右下にある女獅子岩にかじりつく様にしている上顎と、剥き出しの歯も確認できます。
不動明王の足元、太い注連縄の様に光っているのは眷属の龍神です。
この龍神さんは、下塚さんが助けた青龍さんの旦那さんだそうです。
この様に写りこんでいるものが何なのか、どうして説明できるかというと、下塚さんが写真を見ていると、その写真に写っている者自身が何者なのかを語ってくるからだそうです。
写真には、語りかけてこない、名の知れない他の多くの姿もあります。
せっかくなので、神社の写真も載せておきますね。
登り口です。
本堂です。