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ひと月ほど前の事、盛岡の飯坂さんから連絡があった。

@garyotwit お父様に昭和10年代に相模湾にブリ漁に行ったことありませんか?と聞いてみて頂けますか?。米神漁港は、当時100人からの人で定置網を引いたそうです。多くは東北の漁師だったとのこと。山田八幡神社の絵額はその関係でしょう。
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絵馬は大きなもので、現在の定置網とは異なり、円状に連なる船で網を揚げる様子が細かく描かれている。

私の父は昭和6年生まれ。だから絵馬が奉納された昭和16年といえば祖父の時代である。

祖父は私が小さい頃亡くなった。曲がった事が嫌いでズバズバものをいう人だったそう。祖父を知っている人は口を揃えて偉い人だったという。その代わり敵も多かったようだ。

実をいうと曽祖父の代に財産のほとんどを失った。このため祖父は学校にも入れず、小さい頃から苦労しながら働き、やがて出稼ぎの定置網の大謀になった。以前富山でブリを獲ってたという話しを聞いた事がある。あらためて父親に祖父の事を聞いてみた。

祖父は若い頃出稼ぎの定置網の大謀をしていたが、出稼ぎにはこの辺の人を大勢連れて行ったそうだ。とにかく全国まわったようだと父親はいう。父親の記憶にある地名としては富山、静岡、青森、北海道をあげた。

特に静岡はしばらく居たという。その辺りの事は詳しく知っていたそうだ。もちろん相模湾の方も知っていただろうと。しかし残念ながら米神という地名は聞いた事は無いようだ。

八幡様の絵馬は昭和16年の奉納とあり、その頃祖父はすでに地元で事業を始めている。祖父と絵馬とは直接関係は無さそうだ。

次の週、八幡様に絵馬を見に行った。絵馬の下には奉納した15名の名前があり、最初の2人は•ŸŽ福士姓で、その他合わせて5人が福士姓。なるほど、飯坂さんが連絡くれたのはそういう事かとやっと分かった。

次の週、大正生まれのウチの一族の年寄りに話しを聞きに行った。奉納者の名前を見てもらうと、筆頭にいる•ŸŽ福士姓の人達は山田の旧家の•ŸŽ福士の一族との事。他の人達も大沢ではなく山田の人達とのこと。

最後に名前がある方は同級生だが震災の少し前に亡くなったそう。おそらく名前は歳の順に書いたのだろうから一番若かったはずと。他にも二人知っていたが皆亡くなっているよう。

年寄りの話しによると、私の祖父は駿河湾と相模湾を中心に働いていたそうだ。やはり駿河湾だけではなかった。親分(経営者の意味だと思います)は東京の堤さんという人でよく話しがでたそうだ。

つてを頼り、奉納者の一人の息子さんに間接的に連絡を取ってもらった。「八幡様の絵馬の事」で通じたので奉納した事は知っているようだが、内容は分からないという返事。なかなか米神まではたどり着きそうにない。

次の週、年寄から聞いた山田の•ŸŽ福士姓の旧家を訪ねてみた。屋号は中田という家。お婆さんに絵馬の事をうかがったが分からないという。最近お爺さんが亡くなったそうだ。お爺さんなら知っていたかもしれないと。

がっかりしてふらっと八幡様へ。七五三のお祓いに来る親子連れが何組もいた。絵馬を眺めていると、たまたまご祈祷が終わった宮司さんが「この間も来てましたね」と声をかけてくれた。

宮司さんに絵馬の事を聞いてみたが先代からは聞いていないので分からないという。ただ八幡様に奉納するのは旧飯岡村の人。それぞれの地区に氏神様があり、大沢の人なら魚賀浜間神社、旧山田の人なら大杉神社に奉納するはずと言っていた。

昭和16年といえばもう70年前。飯坂さんの期待には応えられず残念。それにしても結局何にも分からず、このブログもまとめようがない。こんな時には笑ってごまかすしかないわけで…。飯坂さんに送った、祖父に関するエピソードで許してください。

『祖父は(出稼ぎの大謀として)大勢の人を連れて行ったのでいろいろあったようです。静岡に出稼ぎに行っていた時の事、付近でミカン泥棒があり、これは南部の奴らの仕業だといって責任者である祖父が責められたとか。ミカンのもぎ方が素人のやり方だったそうです(笑)。』