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昨日ツイートしたのは東京大学地震研究所の『昭和八年三月三日 三陸地方津波に関する論文及報告』 (1934)という資料。

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この中で地震の神様と呼ばれた今村明恒先生が1611年の慶長三陸津波の山田町での状況を詳しく述べている。

まず見て欲しいのは慶長津波の論文の一番最後にあるふたつの図。これは山田町における昭和8年、明治29年、そして今からちょうど400年前の慶長16年の津波による浸水域の比較を示している。今回の津波の浸水域は概ね明治29年の津波と一致する。慶長津波がどれだけ大きかったかが分かると思う。

山田町には慶長津波を伝える古文書が残されている。

「慶長16年10月28日大地震3度仕,其次に大波出來候而,山田浦は房ケ澤まで打參り候由,2の波は寺澤に打參り候,3の波は山田川橋の上まで打參り候由に御座候.織笠は禮堂まで打參り候.扠浦々に人死申事,鵜住居,大槌,横澤800,船越男女50人,山田浦20人,津輕石150人.大槌,津輕石の多數死せるは市日の爲めとあり」

問題は関谷。この根拠が分からず、ずっと悩んでいたがこの資料でやっと分かった。

『同所に於ける口碑に據れば,慶長年間の津浪のとき,浪は手長の明神の處まで打上げた爲め,浪合の明神とも呼ばれる様になつたと言はれて居る』

昭和8年の津波の後、今村明恒先生が現地調査で手長明神の言い伝えを記録したが、今誰も知るものはいない。

手長明神の位置はこれ。

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スライドの5枚目。

そして大浦、これが慶長津波の特異さを象徴する。小谷鳥を直撃した津波は峠を越え大浦に流れ込んだ。明治29年の津波、今回の津波、ともに峠を越える事はなかった。

ただし注意すべきは今回の津波は堤防の効果があったという事。小谷鳥に
関しては、津波が大き過ぎ、浸水域に関しては堤防はほとんど効果はなかったとみるべきだが、湾内の堤防は浸水の時間を遅らせ、浸水域を狭める効果はあった。これは考慮しなければならない。

それでも今回の津波と慶長津波の比較は小谷鳥の峠越えを見れば明らかだろう。大浦では『みっつぁげぇ(水境)』という言葉を誰もが知っている。

もう一つは織笠の浸水域。私が聞いた範囲では明治、慶長ともそれぞれこの図より奥まで行っている。これはもう少し調べる必要がある。東京大学地震研究所の都司嘉宣先生によれば、現在では霊堂は地名だが、昔は特定の建物を指していたと言う。私が調べたところそれが『霊堂八幡』。という事は慶長津波の浸水域は図よりもさらに奥まで行く。今後も調査必要。

この他にもこの資料には興味深いものがある。

昭和8年の津波の後、『此地峽の中央部に(船越湖とは別に)新し湖水を現出す』とある。

昭和8年の津波後の写真がある。これも貴重だと思う。

速攻で書いたので乱文御免。