父は猛烈な読書家だった。
大正生まれで戦争にも行って、カメラ、8ミリ、テープレコーダー、オーディオ機器、釣りと多趣味だった。
引退した後は大きな書斎を蔵書で一杯にして、一日中そこにこもって読書をしたり覚書を書いたり居眠りをして幸福に暮らしていた。
年を取ってからは趣味も少しずつ減って、読書とカメラだけが残った。
宗教に関する文献も仏教を中心に大量に買いこんでいた。

蔵書にはイスラム教の文献まで含まれていた。


亡くなる数年前、父が僕にぽつんとこんなことを言ったのを鮮明に覚えている。
 

「仏教関連の書物は、何の役にも立たない。」
 

それ以上、多くを語らなかった。

しかし、自分の生死を考える上で、心の安定を考える上で、ということだったように思う。

ある日、書斎で、父から一冊の本を手渡されたことがあった。

 

「良い本だから読んでみるといい。」

出版直後から話題になっていた池田晶子の「14歳からの哲学」だ。

父の蔵書の特徴である、鉛筆で薄く傍線と書き込みがあった。
当時の僕は、父が託したかもしれないメッセージは受け取っていない。

自分の心の構えができていなかったからだ。

宗教の章のところに傍線があった。


「人が信じるのは、考えていないからだ。

きちんと考えることをしていないから、無理に信じる、盲信することになるんだ。

死後の存在をあれこれ言う前に、死とは何かを考える。

神の存在をあれこれ言う前に、何を神の名で呼んでいるのかを考える。

もし本当に知りたいのであれば、順序としてはそうであるべきだとわかるだろう。

信じる前に考えて、死は存在しないと気がつけば、死後の存在など問題ではなくなるはずだし、死への怖れがなくなれば、救いとしての神を求めることもなくなるはずだ。

そして、救いとしての神を求めることがなくなれば、存在しているこの自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。

この「なぜ」、この謎の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶとするのなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうか。
(中略)
お釈迦様やキリスト、いにしえの開祖たちは、みな、この謎の姿を見た人たちだ。

決して答えを見出したわけじゃない。」
 

10数年越しでの父のメッセージだった。
 

存在の謎という章にも父の傍線があった。

「本当に「わかる」という経験は、人の態度や人生の構えを、根本的に変えてしまうものなんだ。

頭ではわかるけれども感じではわからない、とも、よく人は言うけれども、これもその通りで、感じでわからなければ、何もわかったことにはなっていない。

頭でわかるだけの知識、借り物の知識なんかに、どうして一人の人間の人生を変えてしまうだけの力があるだろう。

なぜなら、「考える」とは、まさにその自分の人生、その謎を考えることに他ならないからだ。

君は、自分が生きて死ぬということがどういうことなのか、さっぱりわからないということが、はっきりわかるだろうか。」