意外にも古代中国は麦文明


今日の気分は?


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​昨日が誕生日だったので嬉しい。




今日うれしかったこと


うれしかったことを写真と一緒に共有してみましょう

​列島の文化は、中国の倭族と似ている。




   




              湖北省恩施土家(トゥチャ)族苗(ミャオ)族自治州宣恩県の彭家寨景勝地では、古めかしい木造高床式住居「吊脚楼」と初秋の棚田が情緒あふれる風景を織りなしている

文明の母は米作じゃなくて麦作というイメージを決定的にしたのは、古代中国についての歴史理解にちがいない。中国最初の殷(いん)・周の文明は、北の黄河流域の麦作地帯に生まれ、南の長江流域の米作地帯にはそれらしいものは芽吹かず、以後、ずっと中国の歴史は黄河流域にリードされる、と思い込んでいた。
 黄河文明が紀元前5000年とされるが、その南の長江文明は紀元前14000年と、格段と古い。日本列島の稲作遺跡も12000年前まで遡れる。これは何を意味しているだろうか?。
 中国三国志時代の漢民族の食事は、パン。
漢の宮廷で「ひきうす」なるものが発明されてからというもの、麦の食べ方が一変し麦を「小麦粉」にすることで、練ってパンにしたりラーメンにしたり、中華まんじゅうにしたり……!無限のバリエーションでお食事風景が豊かになった。おかずは煮物が主体で、揚げ物の油は、まだないらしい。
列島と漢民族との食卓に大きな違いがあるのだ。
 最近の考古学で、長江流域の発掘が、こうした黄河・麦作優位の最新の発掘成果に基づいて、米作の起源を確認する。一時、雲南説もあったが、現在は、長江の中流と下流の境の辺で、一万二、三千年前に野生種が栽培されはじめ、下流へ上流へと広がった。麦の栽培とほとんど同時期に米作は開始されているのである。
日本と長江そしてベトナムは、漢民族の歴史書から南方異民族として、倭族と呼ばれ、ひとまとめにされている。
その根拠もあながち出鱈目ではない。
日本稲作で良く見かける、あざ道に咲く曼珠沙華。中国の曼珠沙華と植物種類が違う。
中国はタネで、日本列島は球根で増やしてゆく。
中国から倭国に伝来中に海水を被って化学変化したと言う説もあったが、元々発祥が違うのなら、仕方ない。
なら、古代日本の米は、どこからか伝来したのだろうか?。
その答えが、長江である。
長江流域のミャオ族らの稲作近くに咲く曼珠沙華は、球根である。
呉越同舟と言う言葉があるが、これは中国の南にあった呉と古代ベトナムにあった越が仲悪く、絶えず紛争していた。しかし中国に支配されそうになって仲良くしたのである。
ミャオ族の家屋と水田風景は、どちらかと言えば日本の四国や九州の田舎にある村風景に似てはいないか?。(上記の画像)
そこで、長江とベトナムと列島と比較して考察したい。
特に縁遠いと思われるベトナムと列島の文化の共通点である。

衣装

 

ベトナム人と日本人の伝統的な衣装は、基本的に素材と織りの方法が同じであることを知っている人はほとんどいない。2つの国の伝統的な衣装で使用される主な素材は、シルク、ブロケード、綿、繊維、リネンで、青、赤、ピンク、紫、茶色、黒などが使われている。

ベトナムと日本の衣装の色の概念は中国からの影響を受けています。中国は、白、黒の色などの色の意味を区別するのに最も明白です 儀式の場合、幸福を表する赤い色。


崇拝

 

日本人は、ベトナム人の祖先崇拝という習慣を持つ。人々は祖先を崇拝して、死亡した日に従え、命日を行います。故人は家の最も荘厳な場所に置かれた先祖祭壇に崇拝されます。普通は、長男が祖先崇拝の責任を与えられた人です。

この輪廻転生と言う概念は、韓半島の伽耶国にも見られる。

死んで生まれ変われるのなら、遺体を焼いても困らない。魂が、この世とあの世を盆に往還する。

似ていないだろうか?。


祭り

 

 祭りを見れば、ベトナムと日本両国の祭りは季節に従って行われている。

 例えば、子供の日、韓国の正月、七夕、労働者の日、元旦など。

さて、書籍から見てみると、
『倭人とはなにか―漢字から読み解く日本人の源流―』

(明石書店)と言う本には、「倭人」のルーツは
中国・長江の中下流の南側、滅亡した越の従順な民族で、ベトナムやタイ、さらに朝鮮、
または直接日本へ渡り、稲作や高床式建物を伝えたという説があるらしい。

日本との共通点で、高床式建物と切妻造、入母屋造、校倉造、千木
(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)、棟持柱など。村の門の上にある鳥の彫刻は神社の鳥居の
原形。食べ物では、餅、赤飯、豆腐、こんにゃく、納豆、ちまき、馴れ鮓など数えきれない。

さらに共通点は銅鑼、下駄、注連縄、鎮守の森、神籬(ひもろぎ)、貫頭衣、文身(入れ墨)、断髪
にも及ぶが、鵜飼も南中国と日本のみの文化だという。これほど共通点があれば、倭人が
南中国から日本へという説に繋がると思えてなりませんね。




歴史の流れに沿った日越関係に関する資料 

              チュォン・トゥー

 ベトナムと日本は同じアジアの国で、季節風(モンスーン)気候の地域に属し、 水稲栽培の盛んな国である。  ベトナム人と日本人の間には、風習・習慣・信仰宗教に関して「同様」であり「同 調」できる点が昔から数多く存在していた。特に、両国で発展した儒教とともに、 仏教の布教も扶桑国(日本)と東洋半島(インドシナ半島)で早くから行われていた。 両国の文化的交流も早くから始まっていた。「日本史」の資料には、752 年の東大

1 寺大仏開眼供養会にベトナム僧仏哲が招かれ来日したことが記録されている。1また、

交州(古代ベトナムの名称)を訪れた最初の日本人が阿倍仲麻呂であったこともわ かっている。阿倍仲麻呂は遣唐(中国)留学生であったが、唐で科挙に合格した後、 日本に帰国せずに、「朝衡」(唐名)と名乗り唐の朝廷で昇進を重ねていた。753 年、 55 歳の時に、唐詩で有名になった。数多くの唐詩人や大臣と親交があったらしく、 皇帝の図書館を管理する秘書監、および宮門を守衛する兵士を管轄する衛尉卿にま で昇進した。

 761 年(唐の玄宗)に、左散騎常侍から安南節度使としてベトナムに赴き総督を 務め、中国の雲南省とベトナムに居住していた少数民族間の国境問題に関わる紛争 の調停に貢献した。767 年に中国に帰着して 72 歳の生涯を閉じている。  その後、数百年にわたり、日越関係を直接記す資料はない。


と言う事で、漢民族が漢字と言う伝達記録できる物があったので、せっかく倍の歴史ある倭族の歴史を見直す時期が来たと思える。


元記事 その1


元記事 その2