「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃[注釈 1]のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢しており、多数(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。


1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。


その約50年後の永初元年(107年)には、倭国王帥升が後漢へ遣使し、生口(奴隷)を160人献呈している。


帥升以降、男子が倭国王位を継承していったとされるが、2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた(倭国大乱)。


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この大乱は、邪馬臺國の卑弥呼が倭国王に就くことで収まった。卑弥呼は240年代に亡くなり、その次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたびあった。

この時代に、韓半島には伽耶国が存在した。

伽耶は日琉祖語を話していた可能性がある。

日琉祖語(にちりゅうそご)とは日琉語族に属す諸言語の祖語である[1]。日本祖語(にほんそご)とも呼ぶが、琉球諸語を除いた本土日本語諸方言の祖語を指して日本祖語と呼ぶ場合[2]もある。




 『三国遺事』によると金官加耶は西暦42年に首露王が建国、現在の金海市に中心地を置いた。加耶は一つの国というより小国同士のゆるやかな連合体だった。


山の頂上や稜線に墓を作るのは、来世に生き返るという「来世思想」があり、来世と繋がるのが天空に近い山の上と考えられた。来世を信じていた証拠が「殉葬」という埋葬文化だった。中国や韓半島の国々は土葬であり、生き返った時に肉体がないと困るから、そのまま埋葬する。簡単に言えば、盆の風習が伽耶にはあるし、地名も日琉言語で日本語由来に読める地名が多い。


池山洞古墳群(高霊)。700基あまりの円墳が山の稜線部分に並んでいる。来世の生き返りに備え、殉葬者は身の回りの世話をする侍女や警護の兵士など最大40人まで増えた。

倭国は空白の4世紀を過ぎて古墳時代が訪れる。

古墳は権力者の土葬された墓であるならば、列島にいた卑弥呼らとは直接の子孫とは違う気がするとは思わないか?。歴史は勝者が塗り重ねてゆく。伝統的火葬は、輪廻転生と言う来世を信じて行われた。

私は伽耶に倭国の、いや国名を変えた古代日本の源流を感じずに居られない。


倭は加耶を通して土器や鉄器など当時の最先端技術を導入、須恵器と呼ばれる固い焼き物、鉄の加工技術、馬の文化などを定着させた。日本の5世紀は「技術革新の世紀」と呼ばれ、倭の歴史を知るには加耶の歴史を知る必要があるといわれる。







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