夜にはぼんやりとした月が昇ってくるだろうと懸巣は言った。真っ暗闇に目を凝らせば何か見えてくるだろう、怖くはないだろう。視覚は光を感じる感覚なのだから、光がないと何も見えないと私は言う。光は、突き詰めれば熱になる。物は、其処にあるだけで光を発しているのだと懸巣は暗闇の底で笑った。つまり私たちは生きている限り光を放つのだと。本当に暗闇が欲しいのなら死ぬしかないのだと。「私たちが暗闇を感じるためには生きていないといけないじゃないか」そもそも、暗闇を感じるというのは視覚に拠るところが大きいのだから、目が感じることの出来ない熱線、赤外線のことを語るのは筋違いだろう。「目を潰してしまえばいい」「どうする、眼球を失って、視神経だけになった脳が、素晴らしく明るい世界を我々に与えるようなことがあったら」「それならなおさら、暗闇を求める必要などなくなってしまうではないか」目的がわからなくなってしまったのか、ほんの少し迷うような沈黙があり、結局それは懸巣のため息で打ち消された。砂浜に書いていた絵を波が浚っていくように、懸巣の吐息がざあざあと今までの会話を洗い流していくのがわかる。
「あ、あそこ、よだか」「蝙蝠じゃないの」指差す先に檸檬色の月が浮き上がっていた。頼りない黄色のセロハンの前をちらちらと通り過ぎる小さな影たち。羽ばたきは細かく、鳴き声もない。「夜にも雁は、渡り鳥は、海の上を飛ぶだろう」「星椋鳥は、太陽の位置を見ている」「地球の磁場を感じているとも言うよ」「私たちだって、感じることはできる。ほら、男性なんかは方角感覚が鋭いじゃないか。地図が読める」「その地図が読める、という感覚はなんだい。どんな場所に居ても南の方角がわかる、というあれだろう。目隠しされて回転椅子でぐるぐる回って、その後でも迷わずに出口の向きを指差すというあの感覚は、きっと私たちには備わらないのだろうなぁ」ぎゃあ、ぎゃあと鳴くのは雁だ。月があるお陰で天は濃紺色をしている。より暗いのは影を落とす木々の色。私たちの背中側。月の前を通り過ぎる渡り鳥。「私の体はこれからゆっくりと食べられていく。呼吸をするたびに少しずつ、炭素を大気圏に返しているのだ。土の下にいる小さな虫や微生物や細菌が、肌を削り取っていくだろう。水分は肌から、眼球から、のべつまくなし逃げていく。時には雨も降るかもしれない。体を洗い流してくれるだろう。最後に残るのは骨だけか。骨ってカルシウムとリン酸だろう。ねえ、私たちは体の中に石がある。それって地球生まれだって感じがして、とてもいいことだな」「骨は、カルシウムの貯蔵庫だよ。昔々素晴らしく来いミネラルスープだった海で生活していた我々の祖先は、カルシウムのない陸に上がるために、苦労してお弁当を拵えたのさ」「なんたる工夫、」