今日は走る事が出来た。今日は勉強が出来なかった。
自分のブログというものをまったく意識しなくなって久しい。
今回も誤って何かリンクを踏んだ先がたまたまamebaのページだったのでここにたどり着いた。
「まだ残っていたのか」という感想が浮かぶ。
以前は毎日のように更新をしていた時期があったな、と振り返る。
その頃とはいろいろな事が変わっている。
ディズニーランドには年に一度位しか行かなくなったし、カメラを持って出かける事もほとんどなくなった。
変わらない事もある。
走ったり、勉強したりは相変わらずだ。
ブログを更新しなくなった一番の要因はPCに触れる機会が減ったことだろう。
昔は家にいれば常時PCがついているような生活だった。
今はめったに立ち上げることがない。
ただ久しぶりにPCを開き、久しぶりに自分のブログを意識し、最後に記した記事を読むと、「あぁ、自分はこんな事を考えていたな」と思った。
それ以前の記事でもそんな着眼点を持っていたのかと思う事や忘れていた思いなんかが垣間見れたりする。
いずれにしても自分の想いをしっかり言語化できていた自分に感心する。
今の自分の視点だから残せる言葉もあるだろうか。
誰にも見られなくても必要とされなくても、未来の自分に残す言葉として、また何かを綴れればよいと思う。
こんにちは。
前回の更新から個人的にも世の中的にいろいろな事がありすぎました。
振り返って書いているとそれだけで時間を使いすぎそうなので、それに関連することを書きたいと思ったとき、付随して振り返るようにしたいと思います。
今日書きたいのは情操というものについて。
情操とは優れたもの美しいものに接して感動する心の事だそうです。
僕は情操というものは先天的に持っている才能のようなものだと思っていました。
情操教育という言葉もある通り、情操は育てる事ができるもののようです。
しかしその根源となるような部分は生まれながらにしてもっているものなのだと考えていました。
1でも10でも0.5でも持っていて、それを教育によって掛け算的に育てていくものだと。
そして自分にはその情操は備わっていないのだと10代の頃は思っていました。
正確にはあったけど自己を抑えつけすぎた結果、失くしてしまったのだと。
例えば花を見て綺麗だと感じる事や、芸術に触れ何かを感じ取る事が出来ませんでした。
昔、哲学的ゾンビというものに触れた本を読んだことがあり、その時間違った解釈をしたのも影響したのだと思います。
自分には情緒的な感情など本当はなく、世間的に「花は綺麗」「夜空は美しい」「美術館の作品はどれもすばらしい」等というイメージを借りているだけなのだと。
だから本質的にはそのものに興味がなく、すべてそう感じているフリをしているだけなんだと思うこともありました。
そんなことを思い出したきっかけは先日テレビで見た「プロフェッショナル仕事の流儀」の本木雅弘さんの回。
自分に「ニセモノ感」という表現を使う場面があったように記憶しているのですが、それが意味は同じかはわかりませんが、僕も自分自身に対し「作り物」「偽物」という感覚を持ったことがあったので何か喚起されるものがあったのだと思います。
それからの僕は人と関わるためには「自分」が必要だと思いました。
では自分とは何か。
自分の根源にあるものとは。
僕にとってそれは「怒り」と「好意」でした。
何かに対して怒ることと、好きなものに惹かれてしまうこと。
その心の動きは止められるものではなく、また事象や対象に対し直接的に発生する感情だったと感じ、その二つは自分の感情として捉えることができました。
しかしそうした激しい情動だけでは社会には出ていけません。
だから僕は思いこんだり、キャラ付けというか、自分はこういうものが好きで、こういうものに喜び、こういうものを楽しんでいるんです、という設定を自分自身に付与しました。
設定というほど大げさなものではありませんが。
その結果そこそこの興味だったものが、それに関する情報に触れているうちに好きになったりして、自分の一部として確立されていったような感覚はあります。
だから今はきっと情操が育ったのかもしれません。
10代の自分にも小さく少ないながらも情操はあって、それがようやく人並みに育ってきたのかもしれません。
結果として客観的で冷静かつ人並みの感情を持った人間が出来上がったわけですが、それに対して悩むこともあります。
いろいろな人々と接してきて、世の中には感情を優先に動ける人と理性を優先にしか動けない人がいると感じました。
自分は後者の人間で、前者のような人を見ると羨ましくもあり、自分がそうした生き方ができればもっといろいろなものを得ることができそうなのにと思う反面、そういう生き方がしたいかといわれるとそんなこともなく、ただ何かを成すには感情に突き動かされるような時が必要なのもわかっているけれど、落としどころを見つけてそこに置きに行ってしまう感覚。
これも偽物感の一つかもしれません。
とりあえずのクオリティに仕上げて体裁を整えることにこだわってしまうこと。
そしてこれもやはり先のテレビ番組で出てきた言葉で、本木雅弘さんの義母である樹木希林さんが本木さんを「悩むのが好きなのよ」と言ったことがあるそうですが、それもまさに、という感じでした。
悩んだ末自分がたどり着いたのは、悩まない生き方はできないししたくないということ。
ずっといろんなことに悩んで悩み続けて、今も悩んできっと明日も悩んでるけれど、それが最も「自分」なんじゃないかということ。
楽な生き方ではないです。
でも些細なことでも悩まず考えず前に進む生き方は羨ましいけど自分じゃない気がします。
…当初書こうとしてたことから離れすぎてしまいました。
それはまたいつか。