クストリッツァ〈オンザミルキーロート〉をみる@シネマート心斎橋  

土曜20時過ぎで観客4人だったけれど、クストリッツァのパッションに煽られて最後までくぎ付けになってしまった

この映画も〈アンダーグラウンド〉以来
かれが繰り返し描かずにおれなかった、ユーゴ紛争という底なしの喪失に対するレクイエムなのだ(ゴダールの〈Notre Musique〉も、全く異なる次元でクストリッツァと響きあう映画だったと思う)

全編をみたすバルカン音楽は、観るものを圧倒し笑いと銃と血と愛をダイレクトに響かせ、
主役級のアヒル、ハヤブサ、蛇に羊、戦火の中の祝祭にジェノサイド、同じみのぶっ飛んだ寓話がこの世のいまを映す

舞台は架空の内戦国、多国籍軍も入り混じり、停戦、和平、再戦を繰り返す世界
村人たちは休戦を祝って狂乱の祝宴を繰り広げる
彼らは歌う「ビッグブラザーがいる限り、戦争は終わらない」・・

休戦の静けさをついて、多国籍軍の将校が差し向けたスナイパーたちが村を襲い
村人たちは皆殺しにされてしまう

主人公のコスタは、愛する人々を残らず奪われたあと、僧侶となって丘のうえに
砕いた石を営々と積み続ける

キム・ギドクが〈春夏秋冬そして春〉のラストで描いた苦行僧の祈りのように

この鮮烈なラストは、葬いや祈りの意図をすでに超越しているようにわたしは感じる

覆水盆に返らず  
無差別殺戮による喪失をこの石積みでどうして補うことができようか

苦行は、やがて時が悲しみを和らげることにたいして全身全霊で抗う究極の叫びだと思う


戦争屋は資本主義の宿命を負う
民族・宗教間双方の憎悪を増幅し、武器を双方に売りつけては殺し合いを煽り、そのあとに「人道」目的で列強が介入する

すべてが終わればその土地の果実を根こそぎ奪うのだ  
そんな仕打ちが70数年、世界のあちこちで繰り返されてきた・・

この国でも、日に日に息苦しさとキナ臭さが募り、すでに戦前の一時期と変わらないと思われる様相をていしている

そしていまこの国は、憲法条項が一顧だにされないまま、世界で絶え間なく続く戦争ビジネスに巻き込まれる岐路に立たされている

やがて「緊急事態条項」は、憲法の自爆装置となるだろう

そんな事態を無頓着に歓迎する人たちが、どうしてこんなに多いのだろうか
戦争でひと儲けするひとは、ごく一握りの人たちだ

 多くの人がジリ貧にあえぎ活路を求めるなかで、さらなる破綻や死に追いやられたことは、戦前戦中の史実が物語る通りである

戦後三番目の好景気を喧伝する政府が、なぜ最も割りに合わず、リスキーな戦争ビジネスを渇望するのだろうか

際限のない貧困化の一方で、一部上場企業の巨額内部留保だけが突出して行き、設備投資や賃金アップにも向かわなければどうなるか

自律的な経済の循環が失われるとき、最も手っ取り早い支出は海外での覇権の確立と軍事支出であろう

そして日本の「生命線」が喧伝されるであろう

こうして「戦争」は望まれ作られてていく

戦後、個人・団体を問わず世界に希望を与え続けた平和支援活動を足蹴にして、「対テロ戦争」のパートナーにして原発47基を抱えたテロ標的となるこの国とは、ほとんどブラックユーモアの世界に思えてくる


私たちの生活環境は、高々50年前と比べても、とてつもなく変貌してしまった

「人間はかなりの度合において自然そのものからは解放された。・・その度合いは、要求を満たすべく振り向けられた仕事の割合で評価できる。
自然の奴隷、それは休むことなく昆虫を追い続ける燕のことだ。狩猟、木の実の採取。しかしこの解放は、社会への隷属という代償を求める。人間は社会によって食物や衣服を与えられる。・・こうして人間は永遠の未成年となる。(シモーヌヴェイユ「カイエ1」)

そして、いま私たちは、凄惨な格差が不可欠とされる社会を生きている

都会に集中した群衆は、緑なくアスファルトの広がる路を、羊の群れのように、現状維持を望みながら一方向に向け追い立てられていく

だれがそれを望んだのか

しかし神はついにわれわれのまえにその姿を見せることはないのだ

けれども、生きのびなければならない
自分で考えること、真実を知ること、ひととつながること、諦めないこと、楽しむこと、戦うこと、そして愛すること