私の大好きな少年少女部のみなさん、あけまして、おめでとう!
新しい朝日がのぼりました。
新しい一年のはじまりです。
私たちも、心に朝日をのぼらせ、新しいチャレンジをはじめよう!
私も毎年、年のはじめに、心も新たに決意することがあります。
それは、この一年、「世界平和」を一歩でも前進させることです。
みなさんのお父さんやお母さんをはじめ、世界のSGI(創価学会インタナショナル)の同志と共に、心を合わせて、平和のため、人々の幸せのため、今年も、ますます元気に行動していきます。
私たちの最大の希望は、何か。それは、未来部のみなさんの成長です。
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SGIができたのは、40年前、1975年の1月26日です。
太平洋にうかぶグアム島に、51の国や地域の代表が集まって出発しました。今、1月26日は、「SGIの日」となっています。
私も毎年、この日に合わせて平和への提言を発表しています。
平和は、世界のだれもが求めているのに、戦争や争いの歴史がくりかえされてきました。一人の力では、どうにもならないと、あきらめている人もいます。
しかし、「人類が本当に平和を願い、幸せに生きることを望むかぎり、道は必ず開けると信じます」と語った科学者がいます。日本人で、はじめてノーベル賞を受賞した、物理学者の湯川秀樹博士です。
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湯川博士は、今から108年前の1907年(明治40年)1月、東京で生まれ、京都で育ちました。
博士のお父さんは、地質学という、地球のことを研究する学者でした。創価の父、牧口常三郎先生が若き日、 『人生地理学』 という本を出された時、高い評価をよせた方でもあります。
また、おじいさんも、昔の中国の本などをよく勉強した人で、秀樹少年は、小さいころから、漢字ばかりの本を、声に出して読まされました。おかげで、小学校に入ると教科書をスラスラ読むことができました。習字も得意でした。
でも、体育や図工、作文は苦手でした。それに、はずかしがりやで、なかなか自分から友だちに話しかけることができず、はっきりと人に自分の意見を言えなかったのです。そのため、「イワン(言わん)ちゃん」と呼ばれたこともありました。
みなさんにも、苦手なことがあるでしょう。だからといって、自分のことを、 “ダメだ” などと思う必要はないのです。
秀樹少年には、何かをはじめたら、とことんやり通す、「ねばり強さ」という長所がありました。そのため、一生けんめい、学校の勉強に打ちこみ、学ぶことが好きになっていったのです。
そうして高校に入り、大学に進み、「物理学」の研究に取り組んでいきます。いくら失敗しても、すぐに答えが見つからなくても、自分を信じて、「くじけるものか」と、挑戦に挑戦を重ねました。
そして、ついに大きな発見をします。「原子」という、これ以上小さく割れないと、長い間、思われてきた小さなつぶの中に、「中間子」という、さらに小さなつぶがあるはずだと気づいて、世界ではじめて発表したのです。
後になって、この考えが正しいことが証明され、1949年に湯川博士はノーベル物理学賞を受賞しました。日本が戦争に負けて4年後のことで、暗い世の中に、明るい希望の光をおくるニュースとなりました。
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湯川博士は、平和運動にもつくしていきます。そのきっかけとなったのが戦争であり、広島と長崎に原子爆弾(原爆)が使われたことでした。
博士は、兄弟で一番仲の良かった弟を兵隊にとられ、亡くされています。その悲しみは、私にもよくわかります。私もまた、大好きだった兄が、戦死しているからです。その知らせを聞いて悲しみに肩をふるわせていた母の後ろ姿が、私の平和運動の原点です。
博士は、戦争が終わって間もなく、「原子と人間」という詩を、未来を担う少年少女たちにおくりました。
そこには、 “科学の進歩は、人類を幸福にするが、一方では尊い命をうばう兵器も生み出してしまう。科学が進歩すればするほど、人間はもっと進歩しなければいらない!” という思いがこめられています。そして、博士は「原始時代が到来した……人間同士の和解(仲直り)が大切だ 人間自身の向上が必要だ」と呼びかけました。
当時、私は師匠である戸田城聖先生の会社で、少年少女向けの雑誌の編集長をしていました。
雑誌では、科学の話を通して、みんなに夢や希望を広げようとしました。湯川博士のことも、ぜひ書きたかったのですが、雑誌がとちゅうで出せなくなってしまい、実現できませんでした。今こうして、みなさんに語ることができ、本当にうれしく思います。
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湯川博士は、世界の科学者が集まって核兵器に反対した「ラッセル=アインシュタイン宣言」にも、日本人で、ただ一人、署名しました。博士は「核兵器は悪である」と言い切りました。
戸田先生も “核兵器は絶対に許してはならない” とさけばれ、弟子の私も同じ思いで行動してきました。「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名し、後にノーベル平和賞を受けたポーリング博士、ロートブラット博士とも対談集をつくりました。
湯川博士の奥様であるスミ夫人は、博士が亡くなった後も、博士の願いである世界平和のために行動され続けました。SGIの活動にも共鳴して、みなさんのお母さん方の平和運動も、心から、たたえてくださいました。
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これからの時代の平和を築くのは、みなさん一人一人です。
みなさんが、新しいことに挑戦して大いに学んでいくこと、体をきたえてじょうぶにしていくこと、友だちと仲良く友情を結んでいくこと、そうした一歩また一歩が、やがて世界の平和につながっていきます。みなさんこそ、希望であり、未来そのものなのです。
「ひとりひとりが生命を大切にし、賢くあり、そして希望を失うことなく、それぞれの立場で努力していきましょう」と湯川博士は呼びかけています。
今年も、私は、いよいよの思いで、みなさんの健康と前進を祈り、みなさんに励ましをおくり続けていきます。
さあ、一年のはじまりです!
自分らしく挑戦をはじめよう!
私といっしょに!
※ 湯川秀樹の言葉は、湯川秀樹著 『湯川秀樹著作集5』 (岩波書店)から。詩は、湯川秀樹著 『本の中の世界』 (岩波書店)から(一部、語句説明を加えた)。参考文献は、湯川秀樹著 『湯川秀樹著作集7』 (岩波書店)、二反長半著『子どもの伝記全集・1 湯川秀樹』 (ポプラ社)、湯川秀樹著 『目に見えないもの』 (講談社)、湯川秀樹著 『旅人 ある物理学者の回想』 (角川学芸出版)、湯川スミ著 『苦楽の園』 (講談社)。
-2015年1月1日付「少年少女きぼう新聞」より-