長い夏休みなので、生徒はさまざまな自主勉強をしていると聞いている(課題も多いので、それだけで一杯いっぱい、という生徒もいるようだが)。
先日、下校するとき、1年生の男子生徒に呼びとめられた。
「夏休みは課題を早く終わらせ、先生がいってた、写真のトレースに明け暮れました」
「どうだった?」
「先生のいっていたとおり、ある瞬間から、まさに『見える』感じになって、興奮しました」
教室では目立つほうの生徒ではないが、話す態度や声に、高揚しているようすがうかがえた。
本人もなにかを掴んだようで嬉しかったのだろうが、私も嬉しかった。
学校で学ぶだけで上達すると思い込んでいる生徒は多い。
私もそうだから、早く上達したい気持ちはよく判る。
「なんとか、早く上達する方法を教えてくれ」
という叫びが聞こえてきそうだが、漫画はほとんど技術で成り立っているので、一朝一夕には進歩しない。技術を学んでいると、長い停滞期間があったり、かと思うと急に進歩したりする。
経験したことのある人には判ってもらえるだろうが、つい先ほどまで描けなかった顔がすんなり描けるようになった瞬間の快感は、なにごとにも代えがたい。
そこで「学習高原」の話をしたり「習」という文字の話をしたりする。
「習という文字は、羽が白いと書く。つまり「雛」を表している。雛は、飛び立つための練習をしなければならない。飛び立てなければ、獣に食われてしまうからだ。みなさんもまだ雛なのだから、飛び立てるまで、独りで習いつづけなければ、獣に食われるよ。獣は、さまざまな比喩と受け取ってください」
という話。
これは東洋思想研究家・安岡正篤さんの著書からの受け売りだが、私は非常に印象に残った話だから、生徒にもなにかが残れば、と考えて話している。
長年創作と関わっていると、
「おれは一生親鳥になれないなあ」
と落ち込むことも多いのだが。
もうひとつ、2年生の女子生徒から聞いた話。
「1年生のとき、100ページのネーム模写を夏休みの課題としてやって、どんな意味があるのか判らなかったのですが、5月に担当がついて、ネームが下手だと言われました。そこで、夏休みの課題でやったネーム模写を思い出し、尊敬する漫画家のコミックスを3巻分、700ページ近くのネーム模写をしたのですが、それをやって、初めて課題の100ページ模写の意味が判りました」
その女子生徒は少女漫画志望なので、卒業制作は私の担当ではないのだけれど、担当の講師に聞くと(生徒が少ないので寂しいという生徒からの意見もあり、ひとつの教室に二人の講師の担当生徒6人が、合同で作業をする)、ネーム、コマ割りに関してはめざましい進歩を遂げているという。
「結局、やらされているという気持ちでやっても、身にはつかないのを実感しました」
といって、笑った。
そばにいた生徒が、拍手していたが、彼、彼女らも、なにかを感じ取ったのかもしれない。
他の生徒も、さまざまな自主練をしていると思うが、いいことばかりではない。
夏休みがすぎて、1年生の何人かの生徒が自主退学をしたと聞いた。
これは毎年のことで、さまざまな事情はあるのだろうが、顔と名前が一致してからのことだから、はやり一抹の寂しさは残る。