雀の子を犬君が逃がしつる
と、べそをかいた少女が駆け出してくる場面
と、べそをかいた少女が駆け出してくる場面
有名な「若紫」の巻
それは、源氏物語五十四帖の
物語の仕掛けの糸をさまざまに
紡ぎ出す不思議な巻である
「紫式部」という呼び名の
由来とも言われる
若 紫の巻
当時の人々に強烈な
印象を与えたことだろう
おはよぉ(*´ω`*)ノ))
(山桜のようなあなたの美しい面影が
私の心から離れません
私の心の全てを置いて留めて来たのですが
夜風にて花が散るのではと心配になります)
(ほかの誰かに取られそうで不安です)
それほどまで愛したのか
これもまた謎めいた部分である
出逢いから数十年の八月十四日
それは中秋の頃
今にも消えそうな命の中
ふりしぼってきづかいする紫の上
<明石中宮>
どのような御気分なのでしょうか
と、紫の上の御手をお取りもうしなさって
泣く泣く拝見なさると、
本当に消えて行く露のような御様子で、
もはや御臨終とお見受けされるので、
御誦経の使者たちが数限りなく
差し向けられる騒ぎとなった。
以前にも、このように一旦絶息してからまた
蘇生なさったことがあったので
その前例から、御物の怪の仕業と疑いなさって
一晩中加持祈祷などさまざまの
手立てをお尽くしになったけれども
その効験もなく、夜の明け果てるように
お亡くなりになられた
<御法の由来>
法華経千部の供養の後
死を予感する紫の上が
花散里と交わした贈答歌に
「御法(仏事の敬称)」の語が
詠み込まれたことによる
紫の上と花散里は
歌の贈答を通して互いに
強く結ばれた縁を確認し合うのです
二条院の法華経供養の法会
病身の紫の上の宿願でした
紫の上は人々にそれとなく
別れを告げる
死を前に催された
<法華経千部供養>
紫上は女楽の後の大病以来
病がちとなり
出家を願い続けていた
だが光源氏は
仏道に入れば夫婦は
別々になる
どうしても許そうとはしない
自分の命が残りわずかなことを
悟る紫上は
三月十日の桜の盛りに
私邸と考えている二条院で
法華経千部の供養行う
<ここポイント>
その法会の席て紫上は
縁あり心寄せる
明石の御方や花散里に
それとなく別れの歌を贈る
やはり、これを最後として
命つきますのが
悲しうございます
法華経に
ご奉仕なさいます御心は
今日をはじめといたしまして
この世で願われます仏法への
お心ははるけく、千年までも
お仕えなさることでございましょう
(紫上様のご寿命はいつまでも
保たれることでございましょう)
この日の法会によって
世々にと結ばれました
あたなとの御縁を頼もしく思います
来世もまた結ばれとうございます。
私とて残り少ない命
その私にとりましても
御法で結ばれた縁は
絶えないと存じます
まして
このような素晴らしい法会によって
結ばれました私たちのご縁は
絶えることがございません
束の間のこと(儚いこと)
ともすれば吹く風に乱れる萩の上の
露のようでございます。
(このように起きておりましても
萩の上露のように儚い命でございます)
どうかすると先を争って消え行く露
その露のように儚いこの世ではあるけれど
せめて後れ先立つ間を置かない
私たちでありたいものです
衰弱し、絶え入ってしまいそうに
なることがしばしばある
明石の中宮も、養育してくれた
紫の上の様子が心配で里下がりして来た
秋になっても紫の上の容態は好転せず
秋風に萩が揺れる八月十四日の明け方
光源氏に見守られ、明石の中宮に
手を握られながら
”露が消えるように,,
世を去りました
当時、妻の喪は三ヶ月とされていたが
光源氏は翌年の正月になっても
年賀の人に会わず、御簾のなかに
閉じ籠っていた
六条院の女性たちを訪ねることもせず
紫の上の女房たちを相手に
思い出話にふけるのですが
女三の宮の降嫁の際に紫の上が
どれほど辛い思いをしたか女房に語られると
改めて胸がふさがる思いがするのでした
この後も紫の上を偲びながら時を
過ごすばかりの光源氏でした
次回幻につづく
光源氏終焉
走り来る美しい少女
若紫
光源氏と藤壺の密会が
重苦しく語られる「若紫」
紫が見せる無邪気さは息抜きであり
救いであった
ときに源氏五十一歳紫上四十一歳
光源氏と出会って三十三年
妻となってから二十九年
時は中秋名月の頃の八月十四日
紫の上ご逝去
そして
京都・鳥部野にて
荼毘に付されたのです