こんにちは。
Laduna Coco(ラドゥーナココ)です。
川の水面に小舟を浮かべ
流れの速さや方向を決めず
ただ 水のきらめきや
波紋のゆらぎを眺める
その静けさの中で
魂は深く潤い
やがて力まずとも
次の景色へと運ばれていく
こんにちは。
Laduna Coco(ラドゥーナココ)です。
二つの視点は、対立ではなく、
ひとつの川の両岸のようなもの。
川の流れを右岸から見れば、そのように映り、
左岸から見れば、また別の光が宿る。
このどちらも「川」を語っています。
そして川は、”ただ流れている”。
だから、良し悪しで切り分ける必要はなく、
どちらの響きも、尊い一部。
川は、”ただ在る”。
けれど人がそれを見つめ、語ろうとするとき、
「岸」という立ち位置が生まれます。
岸は、川を見出すための窓。
そして川は、そんな岸を”通して”、
自らが川であることを思い出すのです。
「川と岸」は、
「”いのち”と個」に置き換えることもできます。
岸なしで人は川を眺めることができないように、
「わたし」という「個」の輪郭があるからこそ、
私たちは「いのち」にふれていくことができます。
そして「いのち」は、
「わたし」という”映し場”を通して・・・
自らを、そっと思い出していくのです。
”いのち”と、共に。
こんにちは。
Laduna Coco(ラドゥーナココ)です。
原画新作のご紹介です。
「透明な花」
祈りの輪の中心に咲く、透明な花。
この花は
見る者によって、色を変え
触れる者によって、香りを放ち
想う者によって、ふたたびこの世界に形を宿していきます。
透明な花は、その中心に
”空(くう)”を抱いています。
だからこそ、誰の呼吸も拒まず
どんなふるえも
やさしく迎え入れることができるのです。
名前も、理由もいりません。
言葉が届かなくても、沈黙のままでも
ただそこに在ることが、もう祈りなのです。
たとえば争いの場に
悲しみの渦中に
複雑な感情の狭間に
気づかれぬままひっそりと
けれども確かに咲いている花。
「気づかれなくても、咲いていることをやめない」
それはある種の透明な勇気であり、
透明な愛。
そしてそれは
まだ見ぬ未来の共鳴を信じて
名もなく、姿もなく
ただ息づいています。
透明な花は、誰の中にもある
「まだ名づけられていない美しさ」
異なるいのちたちが
互いのふるえを抱き合って生まれる
共鳴のはな。
それは努力や正しさで咲かせるものではなく
「私たち」に還るとき
自然とふわりと“咲いてしまっている”。
まるで、それが最初から咲いていたことに
そっと気づくような・・・そんな花です。
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ショップでは様々な世界観の絵をご覧いただけます。
どうぞお立ち寄り下さい